「聖なる神 ー三部作ー」 ジョルジュ・バタイユ 生田耕作訳
2007年 08月 13日
フランスを代表する思想家ジョルジュ・バダイユが最後に遺した未完作。
本作品は「マダム・エドワルダ」、「わが母」そして「シャルロット・ダンジェルヴィル」からなる三部作。
原題"DIVINUS DUES"に込められた作者の意味する"神"とは、何だったのか?
語るにはあまりにも難解なバタイユ。ここは簡単に筋書きを紹介して自分の感想を述べるに留めたいと思います。
聖なる神―三部作
ジョルジュ バタイユ / / 二見書房
スコア選択:
『マダム・エドワルダ』
これは『眼球譚』の文庫本に収録されたりしているので、バタイユ作品としてはお馴染みの短編小説。パリの有名な歓楽街サン・ドニ街の淫売屋を訪れた主人公が運命の女に出会うという、起承転結があるんだかないんだかわからない展開の中に哲学的表現や抽象的思考が入り乱れてバタイユ節が炸裂!
運命の女、マダム・エドワルダが主人公に向かって「ほら見て、私は神よ」という場面が登場します。ここで、「聖なる神」とは女性性器のことを言っているのだな、と察しがついたのですが、バタイユ様のことだから、もっと深い意味があるのかも知れません。
研究者の中ではバタイユの思想的世界が見事に凝縮した極めて完成度の高い作品とされているそうです。個人的には完成度が云々、バタイユ的哲学が云々というより、音楽に例えるなら一番最初の曲がアルバム全体のコンセプトを決定するように、『マダム・エドワルダ』は「聖なる神」の導入部としてうまく出来ていると思います。
死に向かって突き進んでいくかのようなエドワルダはこれに続く「わが母」のヒロイン、エレーヌの刹那的なキャラクターと重なるのです。
エドワルダが真夜中の街路を夢遊病者のように彷徨うところがサン・ドニ門の真下。自分もパリに行った時、偶然ここを通ってカメラに収めていました。
この門、映画「パリ・ジュテーム」にも出て来ましたが、この辺一体は夜になると怪しいお姉様がたくさん現れて、ちょっとコワイとこみたい...。
『わが母』
映画「ママン」の原作。私がこの本を読もうと思ったのも、映画を観て原作に興味を持ったから。この三部作の中核を成す、狂おしくて残酷な母子の物語。
映画は舞台が南のリゾート地で現代に置き換えられていましたが、小説では1906年のパリ。主人公ピエールは17歳というのが映画と一緒ですが、母親は32歳。エレーヌを演じたイザベル・ユペールは50歳前後。しかし、劇中で「おまえを宿した時、自分は10代の少女だった」という台詞があって、「計算が合わないだろ」と突っ込みたかったのですが、原作の設定そのままだったのですね。
映画は原作にかなり忠実に作られていたと思います。が、意外に思われるかも知れませんが、小説は映画ほど過激ではないのです。もちろんピエールが急逝した父の書斎でエロ写真を見つけるところとか、レアやアンシーも登場しますが、彼が父の部屋でpeeしたりしないし、素っ裸で歩き廻ったりしないし、レアと野外プレイに及んだりとかしてないですよ!ましてや、ラストで母の棺の前で*△×○■(ぎゃ〜〜〜〜〜)なんてやっとらんのです。
果たして、ガレル君はあそこまで体当たり演技する必要があったのか疑問です。ひょっとして「バタイユ作品初の映像化なんだから、このぐらいはやらなくちゃね!」みたいな世間の期待に応えようとあんな演出になったとか?
小説の「わが母」は露骨な描写がありながらも、妖しく退廃的。バタイユ作品としては確かに映画的だと思います。
ピエールの母、エレーヌは13歳の時、森の中で裸でいるところを後にピエールの父となる若者に襲われ、妊娠してしまいます。親になるべく、彼と夫婦になりますが、自分は性的に堕落した人間で男性を愛することができないということを子ども心にも悟っていました。森の中では身をまかせてしまうが、その後は夫に触れさせようとはせず、街の女たちを家に連れ込むようになっていた。その輪の中に夫も入れるようになって、遂に彼を放蕩者として貶めて行く。
そんな彼女の実態を息子は今まで知らなかった。病弱という理由で、親元ではなく田舎の祖母に育てられ、大学生に成長したピエール。パリで暮らす両親の仲があまりうまく行ってないことはわかっていました。遊び人で酒好きの父親に時おり暴力を受けているらしい可哀想なわが母。しかし彼にとって、自分のママンはこの世で最も崇拝する理想の女性。ところが、突然の父の死をきっかけに、崇拝するママンは息子の前で本性を露わにして行くのです。自分の性癖を息子に強制的に認めさせるどころか、彼もまた自分の世界と住人とならなくてはならない、と主張するママン。息子の信仰心を批判し、自分と同じぐらい奔放な女友達レアを引き合わせ、ピエールもまたそんな破天荒な母に疑問も抱かず喜んで従い、大人の仲間入りを果たすのです。
しかし、母は突然ピエールを置き去りにして実は愛人関係にあったレアとともにエジプトに旅立ってしまいます。彼の元にアンシーという女を新しい教育係にあてがって。
ピエールが見知らぬ女と対面するのはパリにある高級連れ込み宿。お互いの姿を一目見た途端、激しい恋に落ちるピエールとアンシー。
映画の中ではアンシーの男友達ルルが彼女に鞭打たれて血まみれになったりしますが、小説の中のルルはアンシーのメイドで幼馴染み。ピエールに出会う前、アンシーとルルはレズビアンな関係にありました。しかもアンシーはピエールのお母さんの愛人であったことが後に明らかになったりして、結局、このお話のキーワードはレズと近親相姦かい?と突っ込みたくなります。
ママンは根が真面目なアンシーを完璧に堕落することが出来なくて苛立っていました。ルルもまた特殊な嗜好の持ち主で、自分を鞭打つようにアンシーに要求したりするのですが、そういうことに彼女は断固として応じない。
日々、愛欲生活に明け暮れるピエールとアンシー。ついにルルを交えて一線を越えてしまいます。そこへ突然踏み込んできた仮面を被った謎の二人の女たち。その女達の正体は言うまでもなく...。
哲学的思想の欠片もない私にとって、なんでエレーヌがこれほどまでに反社会的な生き方にこだわったのか、最終的には死を選ぶことを前提にしていたのかはよくわかりません。
「自分の子どもは全うに生きて欲しい」というのが通常の母親の望みだと思いますが、この困ったママンは可愛いはずの我が息子を自分のハチャメチャな世界に巻き込むことに異常なまでに執着したのです。
しかしながらエレーヌは自分のセクシュアリティを完全には把握できないでいます。「自分が本当に男を愛せない人間なのかは自分でもわからない。しかし、今まで男を愛したことはない」と語っているし、自害する前に実子のピエールと強制的に性交渉を持つことになりますが、ピエールは母を崇拝こそすれ、性的対象としては見なしていません。
最初に「映画ほど過激ではない」と書きましたが、後半の大団円はちょっとキツかったです。あれはいくら何でも映像化できません。最後は結局、というか、やっぱりバタイユでした。
バタイユの描く破滅的世界はキリスト教的教義に対する反抗と言えなくもないような気がしますが、宗教的なことについては自分はよく知りません。部分的について行けない所もありますが、しかし、読んでいる時はすごく面白くてあっという間に読了してしまいました。予備知識がなくとも、純粋に楽しめる魅力的な作品だと思います。
『シャルロット・ダンジェルヴィル』
母の死後、田舎に一時帰省したピエール。ふと立ち寄った教会で彼は一人のうら若き女性に話しかけられます。
彼女の名はシャルロット。地主の娘で実はピエールと親戚関係にあるという。一見、清楚で信心深く見えるシャルロットだが開口一番、「私はあなたのお母さんの愛人でした」と打ち明けるのです。
「今夜の真夜中12時にあなたの家を訪ねてもいいか?」と娘は言い、それを承知するピエール。
シャルロットは身分のある娘でありながら、村中の若者と寝ているという堕落した一面を持っていました。まさに彼の母と同じ世界に属する人物でした。
しかし、この作品は冒頭の3枚で途切れており、「雑記帳」に残されていた下書きのような草稿から訳者が拾って、もう少し続きがあるのですが、それでも完結することなく途絶しています。
ピエールは従兄弟のシャルロットを連れてパリに戻り、小さな部屋を借りて一緒に暮らしたりするのですが、バタイユの中ではどんなふうに展開するはずだったのでしょうか?
現代作家の一人にこの続きを書いてもらいたいもんです。
「わが母」のヒロインが途中、エレーヌからマドレーヌに変わっていたりして、後半の方は未定稿のままで残されていたそうです。生前は日の目を見ることなく凍結された三部作が未完成ながら、21世紀の現代に生き延びているということは、この作品の生命力の強さを証明していることに他なりません。また、本作品は訳者生田耕作氏の最後の翻訳なのだそうです。
さて、さて、さて。
おかげさまで、当ブログも今回で投稿500回目を迎えました。
あと数ヶ月で3年になる、このn'importe quoi!ですが、ささやかながらも長く続けてこられたことをうれしく思います。ブログを始めて以来、様々な方からコメントを頂き、交流を持てたことが自分にとって何よりも大きな喜びです。
今後もこの場所でいろんなことを語り、ネットという無尽のネットワークでの出会いを大切にして自分の世界を広げて行けたらいいな、と思っています。
今後ともよろしくお願いします。m(__)m アリガトォ
といって気になって自分の回数を見てみたら、460回でした。
最後の"アリガトォ"から、ブログ道の蓄積がダシとなってにじみ出ているように思います。
思えば、はじめてコメントしたのはミシャラクのお題の時でしたねぇ(笑)。
な~んて違いますけど・・・あの後、続きでおバカなコメントしそうになったんですけど理性が働いたのでしませんでした。又いつなんどき、あのお題にコメントを入れるかもしれません。夏の暑さで脳がやられちゃってますからねぇ。
最後の“アリガトォ”は堀内孝雄風かしらん?
私は困ったコメントをするコメットさん。
♪わたぁ~しの名前はコメットさん・・・はぁ~夏で脳がとろとろ軟化症の‘かるろす まこう’でした。
500回目の投稿なんて、あっという間でしたね。こんな風にして、いつの間にか投稿1000回目、なんて日を迎えるのかもしれません。って、果たしてエキサイトはそんな膨大なデータを保存しておいてくれるのかしらん???
インターネット・ツールの中にも流行廃りがあり、ブログもピークを過ぎた感があって、そのうちブロガーも減少していくと思いますが、自分なりのペースでいろんなことを語って行きたいと思います。
堀内孝雄は"Thank you!"というイメージがあるのですが...。でも n'importe quio! もまさに演歌!?
ミシャラク関連のコメントもドキドキのドキ!で待ちかまえております。受けてたつわよ!(なんじゃ、そりゃ?)