タグ:澁澤龍彦 ( 5 ) タグの人気記事

「ブレストの乱暴者」  ジャン・ジュネ  澁澤龍彦 訳
ブルターニュ地方に属する、濃い雨と霧に覆われた港町、ブレスト。
作者にとって、殺人の観念は海と水兵のそれに通じるものがある。殺人と船乗り、犯罪と海。
作者にとって、水兵の制服はエロチックなイメージを喚起させる。
"ブレストの乱暴者"とは、主人公、ジュルジュ・クレルのこと。彼は軍艦の乗組員であり、麻薬の運び屋であり、平然と殺人を犯す犯罪者。15歳から不良の世界に入り、裏街道で生き抜く道を好んで選んだ男。
物語は、ブレストの港に通報艦《復讐号》が停泊するところから始まります。

波止場や狭い街路、酒場に溢れる水兵たち。
船員たちにとって、ブレストは《ラ・フェリア》の町。《ラ・フェリア》とは誰でも名前だけは知っている、有名な淫売屋のことなのです。
一番名前の通った店でありながら、彼らのほとんどは、そこの暖簾をくぐったことがなく、その曖昧屋の実態を知らない。
《ラ・フェリア》は、女主人リジアーヌが夫のノルベール(通称ノノ)と共同経営する売春宿でしたが、水兵たちの間で囁かれている噂がありました。
年増だが、まだまだ女ざかりのリジアーヌ夫人に言い寄る男は、まず夫ノノの物にならなくてはいけないとか、ノノとダイスをして賭けに負けた者は彼に尻を貸すことになる、とか。そういうわけで水兵たちにとっての《ラ・フェリア》は嘲笑や罵倒のネタにされるべきものであり、怖れを抱くところでもあったのです。

クレルは、弟のロベールが《ラ・フェリア》の女主人リジアーヌの情夫になったことを彼の手紙で知ります。
自分瓜二つの容姿を持つロベールは、仕事にあぶれてしまい、友人に会いに行ったところを、リジアーヌ夫人に見初められ、彼女のところに身を寄せるようになっていたのです。リジアーヌ夫人の方から彼を気に入ったので、ノノの洗礼は受けていない。
クレルは密輸した麻薬を現金で取引したいため、弟のいる、《ラ・フェリア》を訪れます。
クレルは淫売屋の亭主の、落ち着き払った冷静な態度、警官マリオの氷のように冷ややかな視線に圧倒されている自分に気づくのです。自分の提供する商品、自分の持つ肉体的魅力にも動じないような無関心さ、淫売屋の主人の並外れた逞しさと警官にはふさわしくないようなマリオの美貌に、クレルは強固な男性性を認めてしまう。これまで出会ったことのない、自分に匹敵するほどの、真に男性的な男たち。緊張で全身が強張る自分。
《おれは水兵だ。安給料しかもらってねえんだ。別口の小遣い稼ぎが必要になってくらあ。恥ずかしいことなんかあるもんか。麻薬(ヤク)のことで話をもちかけただけなんだ。文句を言われる筋はねえや。たとえ警官とだって俺は寝てやるぜ》
アウト・ローな淫売屋の亭主ノノと警官の身でありながら、いかがわしい《ラ・フェリア》に入り浸るマリオ。二人の存在は、クレルの中にさざ波のような動揺を広げます。
軽蔑が賛嘆に変わる瞬間。

我々の期待通り(?)、クレルはノノとの賭けでイカサマをしたことがばれ、その罰として、お尻を差し出す展開となります。なぜ、クレルは同性愛者でもないのに、わざわざ悪名高き《ラ・フェリア》に乗り込んで行ったのでしょうか?
表向きは「リジアーヌ夫人と寝てみたい」という口実もあって、ノノに勝負を挑んだのですが、リジアーヌ夫人は自分の実の弟の愛人でもあるのです。
訳者の澁澤龍彦は『ブレストの乱暴者』は殺人者として生きて来た自分の罪を贖うために、すすんで受け身の男色者に変貌させて行くという"贖罪の物語"だと分析しています。
ノノに貫通されることは、新しい自分になるために必要な通過儀式。クレルは本能的に直感し、行動したに過ぎないのかも知れません。

クレルを取り巻く人間模様は極めて複雑。
クレルに恋い焦がれながらも、その思いを打ち明けられず、熱情を手帖に書き留めておくことしかできない、上司のセプロン少尉
彼の記述によって、クレルがどんな容姿をしているかを読者は知ることになります。
"愛し合うほどに、そっくりな"弟のロベール
クレルがリジアーヌ夫人の次の情夫になろうと目論んだのは、もう一人の自分と寝た女を物にして見たい、という近親相姦的な感情が絡んでいたのかも知れません。しかし、ロベールは小説の中で、きわめて淡泊な存在になっています。アクの強い、曲者ぞろいの登場人物たちの中で、ロベールは物語の展開上、必要なために書き添えられただけ、という印象がしなくもありません。
リジアーヌ夫人は、次第にクレルの方へ心を動かされて行きます。
「クレルのアレって、ロベールのより大きくて立派で硬いのかしら?」(←ジュネ&澁澤さんったら、乙女に何てことを書かせるんでしょう!)
そして、警官マリオとも関係を結ぶことになるクレル。
「ノノから話は聞いたゼ。俺だけ指くわえて見てる、って話はないだろうが」
そして、ジュネのしかけた罠に落ちようとしている、二人の少年、ジルとロジェ...。

ジュネの描く世界のほとんどは犯罪と男色がコンセプト。次々と登場する人物や事件がすべてエロに結びついていくのです。クレルが人を殺す場面でさえ、退廃的で美しい。
まさに、フランス版"さぶ"の世界!

『ブレストの乱暴者』は映画化されています。
「QUERELLE」 (邦題 『ケレル』)   1985年
b0069502_21185652.jpg

監督  Riner Werner Fassbinder
出演  
ブラッド・デイビス、ジャンヌ・モロー、フランコ・ネロ、
ギュンター・カウフマン
b0069502_21191244.jpg

原作では、ケレルって20歳の美男ということになってますが、映画ではご覧の通り、胸モジャ(胸毛モジャモジャのこと)のおっさんです。美貌の警官マリオも、あれじゃ、ただのハードゲイ。でも、ジュネ的には、これが正しいのかも知れません。
映画「ケレル」は映画界の巨匠ファスビンダーの遺作でもあり、主演のブラッド・デイビスはエイズで他界しています。
そのデイビスさんの代表作にオリバー・ストーン監督の「ミッドナイト・エクスプレス」がありますが、無実の罪でトルコの刑務所に投獄されたアメリカ人、という役どころで、恋人が面会に来た時のシーンが強烈。ジム・キャリーがパロってたので、ある意味名場面なんでしょう。

映画の冒頭、軍艦が黄金色に染まった波止場に着くところから始まりますが、船乗りたちの会話で「女の熱いアソコが待ってるゼ...。」という台詞があります。私はここで、日本の炭坑夫の「馴染の女を抱きてぇ」というギャグ?を思い出してしまいました。
原作の中でクレルはリジアーヌ夫人と寝室を供にしますが、映画のケレルは夫人とは寝ません。ここだけが原作と違うところでしょうか。
ジャンヌ・モロー演じるリジアーヌが同じ歌を歌うシーンが何度か出て来て、とても印象に残っています。

You Tubeで動画がアップされてました。

querelle fassbinder jean genet

久しぶりに再会したケレルとロベール。
しかし、ロベールは兄のケレルに侮蔑を込めて「オカマ掘られ野郎」と罵倒し、兄弟は殴り合いに。ナイフまで飛び出し、殺し合いにまで発展するのか!?という場面ですね。

querelle -Gay kisses

石畳と岸壁。いかにも人工的な夕陽や昔風の音楽など独特の映像世界を創り上げています。
個人的にはジャンヌ・モローの歌唱シーンをもう一度見たかったな。私、いまでも鼻歌でハミングすることができますから。
ら・ら・ら・らららら〜♪
[PR]
by marikzio | 2006-08-06 21:19 | Book | Comments(0)

「サド侯爵の生涯」  澁澤 龍彦 著   (その3)
妻との離別
晴れて、自由の身となったサド。しかし、それと同時に彼は、思ってもみなかった冷たい仕打ちを受けるのです。
出所した翌日、サド侯爵夫人が身を寄せるサン・トール修道院を訪ねた夫は、面会を拒絶されてしまいます。離別の意志を明らかにした夫人の態度はサドにとってはまさに晴天の霹靂。彼女は長年に渡って忠実な囚人の妻であり続け、老いて弱った体をおして、バスティーユ監獄に足繁く通ったほどだったのに。
実は、サドもバスティーユ時代から、妻が自分と別れたいと思っていることはうすうす悟っていたらしい。しかし、囚人にとって、妻の存在だけが頼りだったので、そのことには気づかないふりをしていたのです。
修道院生活に入り、子どもも成長してしまった夫人にとって、いまやサドは煩わしいものでしかない存在。出所した今、自分が夫にしてあげるべきことは、もう、なくなったのである。今で言う『熟年離婚』に近いものがあるのかも知れません。
手の平をかえすように冷酷な妻の態度を恨みがましく思いながらも、ブーロワル街のホテルの一室で、新しい生活を始めるサド。シャラントンの修道士に預けてあった家具や衣類は長男のルイ・マリーが運んでくれました。
しかし、さすがに生活に窮したので、義母のモントルイユ夫人のところへ生活費を借りに行きます。数ルイの金を貸してはくれたものの、早く自活の道を講ずるようにと意見する義母の態度にルネ夫人が別離を決意した背後に母親が絡んでいることを、サドはその時確信しました。
カトリック信者は離婚が禁止されているので、ルネ夫人はパリ裁判所に夫婦別居の申請。同時に持参金としてサド家に受納されていた十六万八百四十二リーブルの金の返却を要請します。計算高いモントルイユ夫人の入れ知恵であることは間違いありません。
そして、入獄前にサドと関わった他の誰も、彼に救いの手を差し伸べてやろうとした者はいませんでした。二人の息子を除いて。

新しき伴侶、演劇と本の出版
こんな風に踏んだり蹴ったりな人生の再スタートを切ったサドですが、青年時代からずっと情熱を燃やしていた戯曲の活動を本格的に始めます。劇場の楽屋や廊下に何度も出没して、以前のように若い女優に言い寄るのではなく、ひたすら自作の脚本を売り込みに奔走します。
韻文劇『誘惑者』がイタリア座の脚本審議会を通ったり、コメディ・フランセーズの脚本審査会で『閨房、あるいは信じやすい亭主』を自ら朗読して聴かせたり。今日、18世紀の小説家として認識されているサドですが、もともとは戯曲の世界に憧れていた人であり、劇作家になることが夢だったようです。
それと同時に配偶者と別れたばかりの女性(当時40歳)と交渉を持ち、彼女が所有するアパートの一室で生活するようになります。しかし、その女性との関係は長く続かず、1790年、別の女性が彼の前に現れます。マリー・コンスタンス・ルネルという30にも満たない若い女優。夫であった商人バルタザール・ケネーは妻を捨て、アメリカに渡り、彼女には連れ子が一人。この時、50歳を過ぎていたサド、相変わらず、というべきか天晴れというべきか。しかし、このケネー夫人とは非常に相性が良かったらしく、若い時のような情熱的な恋愛関係というより、老夫婦のようなほのぼのとした愛情関係が晩年まで続きました。あれほどまでに色好みだった元侯爵は、彼の良き理解者であるケネー夫人以外の女性に気が行くようなことはなくなったのです。

バスティーユ時代に書かれた『オクスティエルン』が1791年10月22日、モリエール座で上演されました。これが初めて舞台に乗った戯曲。『オクスティエルン』大成功を治め、11月4日に二回目の公演となり、その晩の成功を当時のモニトゥール紙がかなり詳しく伝えられています。
イタリア座で採用された『誘惑者』は本番当日、幕があがった瞬間にジャコバン派のグループに妨害されて断念。妨害の理由は「貴族的だったから」という政治的理由によるもので、彼の芝居が上演されたものは、事実上『オクスティエルン』だけとなりました。それ以降にも戯曲をたくさん書いて、売り込み活動はしているものの、採用には到らなかったのです。

同年に、小説『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』が上梓され、これが市場に出回った彼の初めての著書となります。言うまでもなく、バスティーユ時代に書いた『美徳の不運』のリメイク作品。もっとも、オリジナル作品は紛失して、生前彼の元に戻らなかったのだから発表されることもなく、そういう意味で結果的に、これが「ジュスティーヌ物語」の第1作となったわけです。
本人曰く「金のために、出版者の求めるままに、悪魔も鼻をつまんで逃げ出すような不潔な作品」だったそうで、あまりに不道徳で猥褻な内容のため、版元はオランダ、作者は死んだもの、とされました。この二巻からなる皮装丁の好色本は売れに売れ、死んだはずの作者の台所事情にも大いに貢献したのです。
ジャーナリズムがこぞって「『ジュスティーヌ』の作者はサド」と論じるのに対し、サドは生涯、それを否認し続けています。

恐怖政治とラ・コスト城の破壊
サドが釈放された1790年はまさに恐怖と無秩序の時代。
1791年6月20日、パリを脱出しようと目論んだルイ十六世一行がヴァレンヌで捕らえられてパリに護送。ロベスピエールの独裁政治が猛威を振るって、王党派や穏和主義者は次々に首を切り落とされたという、戦慄の時代。フランス革命の空気はフランス全土に広がって、地方では農民一揆が続きました。
1791年8月10日にはパリで暴動が起こり、それに続いて9月2日、パリ中の監獄が襲撃され、貴族、僧侶、女から子どもまで、1,100名から1,400名の者が大量虐殺されるという「9月の大虐殺」が勃発。
サドが書いた手紙によるとマリー・アントワネットの幼友達であるランバル侯爵夫人が犠牲者となり、その首が槍の先に突き立てられ、王妃と王の目の前に差し出され、胴体は卑劣きわまる辱めを受けた末に、街中を引きずりまわされた、と記述されています。まさに、自分が書いた小説に出てくるような血みどろの光景にサドは震え上がるのです。
余談になりますが、ギロチンって最高に身分の高い人のための処刑ですよね。逆に一番卑しい身分の者はイエス・キリストが十字架にかけられた磔刑とか火あぶりとか。どれも公開性があって、一般市民は罪人が処刑される瞬間を見学しに集まったりして、死刑って庶民の残酷趣味な娯楽だったのでしょうか?
「9月の大虐殺」の勢いは地方にも飛び火して、かつてのサド邸だったラ・コストの城にも約80人の村民が侵入し、滅茶苦茶に破壊してしまいました。このニュースを聞いた時、サドは「自殺してしまおうか」と思ったほど衝撃を受け、落胆してしまいます。

ここで、ちょっと脱線。
ラ・コスト城
プロヴァンス地方はアヴィニョンの近くにあるラ・コスト城。
芝居フリークだったサド侯爵が招待客の前で自作の戯曲を上演したり、若い女中や下男を集めて秘密の饗宴を開いたりした、彼にとって最も華やかなりし時代の思い出が詰まった館。
現在、200年の歳月を経て老朽しきった廃虚ではありますが、公開もされていて、フランソワ・オゾンの映画『Swimming Pool』の中で女流作家役のシャーロット・ランプリングが見学しているワン・シーンがあります。天井はなく、崩れた壁と煉瓦、石の階段という文字どおりの廃虚の光景。私は実際に行ったことがなく、饗宴が行われた部屋とか寝室とか見てみたいとは思うけれど、立ち入り禁止になってるのかも知れないし、風化が進んでしまって、壁も床もなくなってるのかも知れません。名高い性犯罪者だっただけに、現場に資料とか写真の展示もなさそうな感じだし。映像で疑似体験してるだけで充分な気がします...。丘から見下ろす景観は南仏的できれいでしょうけど。

サドは一時期、ピック地区の委員長にまで昇格し、公の名士として活躍するようになったのに、「反革命派」という疑いをかけられ、再び逮捕されてしまいます。貴族出身という微妙な身分が災いしたのです。革命政権下で監獄や修道院などの施設にたらい回しにされ、自分の隣で悪性の熱病に罹った囚人が死に、1,800人もの受刑者を庭に埋める仕事もさせられました。彼自身も処刑者リストに名前が載ったこともあり(結局はギロチンを免れましたが)、自分で紙の上に描いたバーチャルな暗黒世界をまさにリアルで実体験することになったのです。まるで彼の小説が近い将来を予言していたかのように。
そんな地獄絵図のような時代が終焉したのは1794年7月28日。午後7時半、ロベスピエールら22名のテロリストが革命広場で処刑されました。これが世に言う「テルミドールの政変」です。
そして、それから一ヶ月半後にサドは釈放され、ケネー夫人と同棲生活に戻ることになりました。

貧窮を極めた生活
自由を取り戻したとはいえ、職を追われ、俗世間からかけ離れた、処世術が著しく劣っている男。こんな人物が人並みの収入を得て生きていくのは想像以上に困難なことなのです。当然、生活は困窮し、お金を稼ぐため、1795年、彼は再び本を出版します。
哲学小説『アリーヌとヴァルクール』と匿名で出版した『閨房哲学』

『閨房哲学』
河出文庫『閨房哲学』
「『美徳の不幸』の作者の遺作」だなんて、「ジュスティーヌ」の商業的成功を再び狙った魂胆がミエミエですね。私は手元に持っていますが、まだ未読。
「閨房」とは寝床を意味しています。"寝床の哲学"、それがどんな内容なのかは言わずもがなでしょう。
当時、添えられたエピグラフは「母親は娘にこれを読ませねばならぬ」。

その二年後に発表された『新ジュスティーヌ』および続編『ジュリエット物語』
"遺作"だなんて言ってて、生きてんじゃん!(と、突っ込みたくなりますよね)
もちろん、この手の好色物は超売れ筋。『新ジュスティーヌ』と『ジュリエット物語』は分けて買うこともできたそうです。

『新ジュスティーヌ』
河出文庫『新ジュスティーヌ』
1791年の『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』の続編かリメイク版。『オリジナル版ジュスティーヌ』にさらに過激な描写を加え、ヒロインをいたぶる悪党どもによる"オレ様哲学論"が延々と語られ、厖大な量に膨れ上がった本文の中から澁澤氏が一部のエピソードを抜粋して全体の4分の1を抄訳。
原ジュスティーヌが淡々と綴られ、ストーリーもわかりやすく読めるのに対し、リメイク版はひたすら冗漫で、無駄が多いように感じます。生きるのが下手なオリジナルのヒロインは、その不器用さのために災難に見舞われる、という設定がどこか寓話的でリアリティーが感じられるのに対し、新ジュスはペルソナージュが希薄で、人形のようにいじめ抜かれています。生々しい場面が多くなっているのは読者受けを狙ってのことでしょうか?
ナポレオンがこの作品を読み、サドは死ぬまで精神病院から出られなくなってしまうのです。

『ジュリエット物語』
河出文庫『悪徳の栄え』
「美徳のジュスティーヌ」と対をなす「悪女ジュリエット」の物語。
ジュスティーヌの姉ジュリエットが何のためらいもなく娼婦の世界に飛び込み、背徳の世界で生き抜くための悪徳修業を経て、あらゆる悪党と知りあいになって、出世して行くストーリー。鶏姦、裏切り、殺人、何でもアリのヒロインは巨万の富みと地位を手にして、悪の賛歌を高らかに歌う。「ほうら、悪が勝利するのじゃ!ぐわっはははは」という作者の高笑いが聞こえてくるような...。
澁澤氏はこれもオリジナルの3分の1に抄訳しているのですが、それでも上下二巻。長かったです...。

サド作品って、実は読んでいてそれほど愉しいものではなく、むしろ退屈で、不愉快な気分になります。やたら小難しい哲学的理論を延々と展開して、それで無駄にページ数を稼いでいるという感じです。「悪徳の栄え」はそんなサドの負の特徴が最も端的に出ていて、そういう意味でもこれは大傑作です。
気づくと「何でこんなことをするんだろう」と真面目に腹をたてている自分がいたりして、でもその怒りって、サドが人生の中で社会から受け続けて来た仕打ちに対しての怒りが移っているものなのかなぁ、と思ったり。実際、サドが抱いた怒りなんて、こんなものじゃなかったんでしょうけど。
「読んでヤな気分になるなら最後まで読むなよ」なんて言われそうですが、この退屈というのが不思議とやめられなかったりして、それがサド文学の毒であり、魅力なのだと思います。

生活の苦しさは一行に緩和されず、プロヴァンスにある土地やラ・コスト城まで手放します。ついに万策つきて家を売り払い、ケネー夫人は友人の家に、サドは昔使っていた小作人の家に転がりこむところまで行ってしまいます。要するに乞食同然の生活。
贅沢三昧に暮らした不良貴族がこのような貧困者に身を落すことになるとは、誰が予想できたでしょうか?もはやかつての高慢で幼稚な放蕩者とは別人物なのです。
1800年、貧窮のどん底に陥り、ヴェルサイユの慈善病院に入り、この年の10月、「恋の罪」を刊行します。

『恋の罪』
河出文庫『恋の罪』
これはサドの名前で出版。悪意ある批評家たちが「『ジュスティーヌ』の作者と同一人物である。」とこぞって書いたのに対し、憤然として抗議。
だから、バレバレなんですってば!

逮捕と拘束
『新ジュスティーヌ』刊行から4年後、出版元のマッセ書店が警察の捜査を受け、その場に居合わせたサドは御用、となってしまいます。
再び牢獄生活へと突入。2つの獄を渡ったあと、健康状態を心配した家族の要請により、シャラントン精神病院へ。再びこの病院の門をくぐることになりましたが、これを最後に、サドは二度と娑婆の世界に戻ることはなかったのです。

シャラントン精神病院は監獄よりもはるかに居心地の良い場所でした。院長クールミエの好意により、病院内に劇団を組織して、自作の芝居を上演します。役者は同じ病院の患者たちで、外部から招待客を呼んで公演会は開かれました。執筆活動では『エミリーの物語』、『フロルベルの日々、あるいは暴れた自然』を浄書。
1811年、『新ジュスティーヌ』の新版が再びパリに出回り、病院内で何回か訊問を受けることになります。出版社の商魂のたくましさが伺われるエピソード。
比較的、優遇されていたサドの病院生活でしたが、シャラントン病院付医師長ロワイエ・コラールが彼の存在を心良く思わず、次第に院内での活動が制限されて行き、ついには一切の芝居活動が禁止されてしまいます。
ナポレオンに健康の衰弱を理由に保釈を申請するも、彼が汚らわしい『ジュスティーヌ』の作者である、という理由もあって留置が決定し、サドは人生最後の日をここで迎えることになってしまいます。

そして、死
1814年。74歳になっていたサドは日に日に健康が衰え、歩行不能に陥ってしまいました。
12月2日、次男アルマンが午前中、病床の父を見舞いに来ましたが、病院付実習生のラモンに看病を依頼して帰宅。同日午後十時頃、サドは医学生に看取られながら死にました。ラモンの診断によれば喘息性肺栓塞。
「余の棺はヴェルサイユ百一番レガリテ街の材木商はル・ノルマン氏に作らせ、遺体は氏の護送のもとに、エペルン近在エマンセ郡マルメゾンなる余の土地の森に運ばれ、いかなる形の葬儀の形を取らず、前記の森の右手に位置する叢林の下に墓穴を掘って安置して欲しい。墓穴の蓋を閉めたら、その上に樫の実を蒔き、余の墓の跡が地表から見えないようにしてもらいたい。余は人々の記憶から消し去られることを望む。」と書かれた彼の遺言はことごとく破られました。ル・ノルマン氏に連絡はされず、遺骨はシャラントン病院付属の墓地にカトリック教会の方式に従って埋葬され、墓には十字架が建てられました。
次男アルマンは不心得者で病院に残された、かなりの量に及ぶ原稿は警察と一緒に焼却し、他の一部は箱の中に封印して、サド家で五代の間、門外不出の扱いになったのです。罰当たりな息子もいたものです。

本著の最後の方で澁澤氏は、マドレーヌという16歳の少女との最後の恋とジャンヌ・テスタルという当時20歳の娼婦の供述、という補遺を添えています。
前者はシャラントンの病室で出会った雑役婦の娘と死を直前にした70過ぎの老人が親密な関係にあり、少女は「また来るからね」と約束したのに、サドが急死して逢瀬が果たされず、彼の最後の女性はケネー夫人ではなく、実は50歳以上も歳の離れた女の子だったというお話。まさに死ぬまで現役だったとは。
しかし、それよりも後者のお話の方が興味深いです。当時23歳ぐらいだったと思われる、投獄前のサドらしき人物がジャンヌ嬢にキリスト像の前で神を冒涜するような行為を行い、彼女に「自然に反する方法で交わりたい」と言い放ったこと。
それこそがリベルタンとしてのサド!彼の全存在を象徴するようなエピソードです。

彼は生まれて来る時代を間違ったのでは?200年遅く、この世に誕生していたら、それほど不幸な人生を送らないで良かったのに。
学校の教科書には絶対に登場することのない、この前衛的な思想家は、しかし、18世紀時代のフランス哲学を語るうえで欠かせない存在であるのです。次世代の文学者、思想家、心理学者にインスピレーションを与えた偉大な星として、今もなお君臨しているのだから。

(その1)

(その2)
[PR]
by marikzio | 2006-03-15 17:24 | Book | Comments(0)

「サド侯爵の生涯」  澁澤 龍彦 著   (その2)
モントルイユ家の女たち
独身時代から遊蕩者という悪評が絶えず、汚点だらけであった青年ドナチアン。彼の縁談がこれまで何度も失敗しているのも実はその為であり、そんな彼を敢えて受け入れ、その人生に割り込むこととなったモントルイユ家の女たち。度重なる不祥事や遊興で膨れあがる負債。婿に翻弄された彼女たちもまた、彼の人生を支配下に置き、その運命を掌中に治めていたのです。ここで、サドの義母と妻、その家庭について簡単に述べたいと思います。

義母、モントルイユ夫人
小柄で魅力的な美人。愛嬌があって華やかな人でしたが、狐のようにしたたかで、野心的。
ドナチアンの悪評に目をつぶってまでも、縁談に積極的だったのは、王家と血縁を結び、婿に宮廷で身分の高い地位についてもらうことを望んでいたが為。しかし、野心なき花婿はそういう社会的名誉にまるで関心を示さず、義母の過干渉を疎ましく思う始末。
最初、モントルイユ夫人は婿に好意的で、最初のスキャンダルでヴァンセンヌに投獄された時も請願運動をして、彼が出所するのを助けたりもしたが、妻ルネの実妹であるローネー嬢と関係したことをきっかけに敵対するようになる。
モントルイユ夫人の積極的な運動により、何年も逃亡生活を続けていたサドは逮捕され、長い牢獄生活へと送り込まれることになった。彼にとってはまさに悪魔のような女。

妻、ルネ夫人。
前回も書いたように、この結婚は両家の利害関係が一致した政略的な結婚。
しかし、おとなしく貞淑なルネにとってはサドは純粋に愛するする夫であり、若い舞台女優や実の妹など、数々の不貞を黙殺し、夫が収監された時代もずっと影で支え続けた。
容姿もスタイルもそれほど目立つものではなく、生真面目な妻をサドは少々、面白みのない女だと思っていたようだが、捕らわれの身である彼にとって、唯一頼りにできる身内であり、わがままを受け入れてくれる存在であった。彼との間に二人の息子と娘をもうけている。
しかし、サドがようやく11年間の牢獄生活から開放される時が来た時に、ルネ夫人は29年間の結婚生活に終止符を打つことを表明し、修道院で隠遁生活に入ることとなる。
長男ルイ・マリー次男のドナチアン・クロード・アルマンは父のことを生涯恥じて、ルイ・マリーは兵役中に偽名を使っている。長女マドレーヌ・ロールは知恵遅れであったらしい。
なお、三島由紀夫の戯曲「サド侯爵夫人」は本著「サド侯爵の生涯」が母胎となっている。

ローネー嬢。
ルネ夫人の実妹。姉よりも6歳年下で、容姿も彼女より優れていた。
最初、サドは彼女と結婚したがったのに、モントルイユ夫人がこれを阻止して、地味なルネと結婚させた、という俗説もある。
修道院で教育を受けたあと、俗世間に出て姉の婿、サドと出合う。好奇心旺盛で、冒険心のある魅力的な美少女というから、サドが夢中になったのも無理はない。二人の関係は秘められたものであったが、サドの起こしたマルセイユ事件で動揺した彼女が家族に口を滑らせて発覚した。ルネ夫人はこれを黙認していた、とも言われている。
マルセイユ事件で死刑宣告を受けたサドはローネー嬢を連れてイタリアへと逃亡の旅に出る。
嫁入り前の娘を娘婿に傷物にされたことに腹をたて、これをきっかけにサドと敵対関係になったと言われている。しかし、ローネー嬢は天然痘を患い、ラ・コスト城でその生涯を終えることになる。

フランス革命までの牢獄生活
『城壁には入口が一つしかなく、二人の歩哨が番をしている。三つの城門はいつもぴったり閉ざされている。四つの塔の内部に区切られたすべての部屋は、囚人の独房である。それは二重の鉄扉で閉ざされている。壁の厚さは十六尺で、天井は三十尺以上の高さである。この暗い部屋には、太陽の光の差しこむ窓すらないので、常に永遠の夜が支配している。鉄の格子戸は、狭い明かり取りを遠ざけている。中庭のほうに向かっては窓もあるが、堀の胸牆頂きに突き出た城壁の内部の部屋にはそれさえない。言うまでもないが、囚人の部屋には夜でも昼でも錠が下ろされ、閂がかけられている。』
(ミラボー『拘束状と国家監獄論』1782年 より)

1778年9月、ヴァンセンヌの城砦の第6号室で幽閉生活に突入したサド。ここの独房で5年半を過ごした後、ヴァンセンヌの牢獄は閉鎖となり、バスティーユ監獄に連行された彼は、「自由の塔」と呼ばれる獄舎で獄中生活を続けることになります。1789年の7月、サドはある騒ぎを起こして、監獄から精神病院へ送られ、その直後に革命が勃発。憲法制定審議会の訓令により、ようやく彼が自由の身となり、娑婆の世界に出た時は、ヴァンセンヌ投獄から11年の歳月が流れていました。

孤独と厳寒、神経衰弱。火の気のない獄中、空さえ満足に拝めない劣悪な環境の中で、夜はネズミが布団の中に入って来るのではないかと怯えながら、ひたすら身内に手紙で窮状を訴え続けたサド侯爵。ルネ夫人との初面会が許されたのも、入獄してから4年の月日が流れていました。
長期に及ぶ監禁生活のせいで、彼の神経は苛立ち、獄史と度々大喧嘩をするようになっていました。そのことによって、散歩が禁止されたりなど、余計に拘束を強いられるという悪循環。妄想に取りつかれるようにもなっていて、数年ぶりに妻との再会を果たすも、「夫人がある男と浮気し、姦通している。」と疑うようになって、手紙で激しく彼女をなじるようになります。嫉妬に狂った夫の執拗な追及に、侯爵夫人は愛想をつかすどころか、身の潔白を証明するために修道院で暮らし始めるという涙ぐましさ。家計はすでに火の車でしたが、囚人の際限ない物資の無心にもできるだけ応えようと努力し、夫の釈放のためにあらゆる事を試みます。
しかし、その甲斐なく拘留期間は引き延ばされ、時間だけが残酷に過ぎて行ったのです。

牢獄文学者の誕生
外の世界から遮断され、己の内側の声に耳を傾けるほかない彼にとって、残された唯一の愉しみは、子どもの頃から親しんでいた書物の世界に没頭することでした。時に「囚人の頭を興奮させ、好ましからざる事を書かせる」という理由で一切の書物が取り上げられることもありましたが、今の彼にとって、「想像力の赴くままに書くこと」が己の不幸を忘れることのできる慰みとなっていたのです。4年間の間に読んだ書物は膨大な量となり、ダムのように蓄積した知識や想像力が噴火口のように、ペン先からほとばしり出るのはもはや時間の問題。
1782年7月12日、サドはついに対話形式の哲学的小品『司祭と臨終の男との対話』および『随想』を含む一冊の手帖を脱稿。しかし、暗闇の中の蝋燭の下で何日も細かい字を書き続けたために、彼は眼病に悩まされるようになりました。満足に眼科治療も受けられない悪条件の中、サドは取り憑かれたように執筆を続け、内側で炸裂する怒りの炎を暗黒文学へと昇華させて行きます。
バスティーユで彼は『ソドム百二十日』の浄書を終え、その後、わずか15日で中編「美徳の不運」を書き上げます。
バスティーユ牢獄時代、50編にもおよぶ短編および中編小説を書いたサド侯爵。その人生の中で、創作活動が最も旺盛だった時代であり、作家サドが行動を開始した最初の地点でもあります。しかし、1789年のバスティーユ襲撃によって、書き留められた膨大の量の原稿は暴徒たちによって踏み荒らされ、紛失してしまいます。そして、二度と本人の手に戻ることはありませんでした。
しかし、その四散した原稿の中には彼の死後、運良く発見されたものもあり、出版され、今日、読むことができるものもあります。
その中で代表的なもの、私が印象に残っているものを紹介したいと思います。

『ソドム百二十日』
ルイ十四世時代末期、殺人と汚職によって、莫大な私財を築き上げた4人の悪徳老人が「黒い森」の人里離れた城館で42人の男女ととも120日間に渡る"ソドミーな大饗宴"を催すお話。数多くの美男美女が陵辱され、虐殺されていく描写が気持ち悪くて、腹立たしくもありました。(ただのフィクションなのに...)
奔放な想像力、残虐でエロティックな妄想、反社会的なサドの思想が結集した大傑作、と言われています。性倒錯嗜好のデパート、とでもいうべき内容で心理学者にとって重要とされている作品なんだそうな。襲撃で紛失してしまい、サドは生涯にわたって、このことを悔やんでいたそうですが、彼の死後に発見され、襲撃から120年後に出版。彼の未完の最高傑作は1世紀以上の時空を経て日の目を見ることになったのです。

『美徳の不運』
河出文庫では『美徳の不幸』というタイトル。
美徳のジュスティーヌと悪徳のジュリエット。この対称的な姉妹の物語はサド文学を読んだことのある者にはお馴染の代表作。とくに美徳に生きることを選んだためにヒロインが次々に酷い目に遭う『ジュスティーヌ物語』をサドは生涯にわたって3バージョン書いており、まさに彼のライフ・ワークともいうべき題材。
「原ジュスティーヌ」とされる本作はサドがバスティーユ監獄でわずか15日で書き上げ、その翌年に加筆・訂正を加えてボリュームのある中編小説に仕上げたもの。これもまた、襲撃のどさくさに紛れて永いこと紛失していましたが、1909年、パリ国立図書館でアポリネールにより発見され、1930年にモーリス・エーヌにより紹介・刊行。『ソドム百二十日』と同じように100年以上の眠りから復活して、今日に到っています。
生みの親が死に、世紀が変わってから日の目を見る作品というのは、やはり生命力を持っているのだと思います。どちらも凄いエネルギーだ。

家が破産し、父は国外へ追われ、母が悲しみのあまり死ぬという不幸に見舞われたジュリエットとジュスティーヌ姉妹。けものみちを生きてでも、裕福な特権階級にのし上がろうと野心を抱く姉ジュリエットと、そんな堕落した人生を歩むより、高潔な精神のままでいたいと主張する妹ジュスティーヌは根本的な性格の違いから決別します。
心優しきジュスティーヌは出あう人々につけ込まれ、辱めを受け、彼らから逃げても逃げても、行く先々で同じような邪悪な人物に遭遇します。
最後に伯爵夫人となったジュリエットに保護され、しかるべき身分を与えられますが、何もかも恵まれた環境が自分にはそぐわないように感じてしまいます。
悲劇のヒロインは雷に打たれて命を落とすのですが、サドは出所後、『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』として復活させ、フランス文壇にセンセーショナルなデビューを飾ります。作者は死んだものとして。

『ユージェニー・ド・フランヴァル、悲惨物語』
河出文庫「ソドム百二十日」に収録している中編小説。父と娘の近親相姦を扱った家庭悲劇。
魅力的な容貌の下に悪徳の塊のような本性を隠した、フランヴァル。類い稀なる美貌で高潔な精神をもったファルネイユ家の娘と結婚するが、彼女との間に生まれた娘、ユージェニーを自分の情婦にしてしまう。父親から、母を激しく憎み憎悪するように吹き込まれたユージェニー、父親譲りの堕落した精神の持ち主で、父と共謀して母親を陥れてやろうと画策します。
近親相姦ものって、古典悲劇にはよく見られるものだそうで、この作品もどこか古風な美しさがあります。悪しき者が滅びる、という結末で、サド作品としては珍しい。
一見、悲惨としか言いようのないお話ですけれど、コレ、なかなかの傑作ですよ。映像化したら、結構ドラマチックでいい作品になりそうな気がします。

本当は、私がサド作品の中で一番お気に入りの悲恋物語の短編があるのですが、これを書いていると長くなってしまうので、いずれ機会があったら紹介したいと思います。

革命勃発と釈放
動乱の気運が高まり、暴動まで発生していた1789年7月のパリ。バスティーユの囚人の待遇はだいぶ良くなって、夕方1時間の中庭の散歩に加えて、午前中1時間の屋上の散歩が認められるようになっていました。しかし、パリの擾乱が日増しに激しくなって厳戒体制に入っていたバスティーユの典獄がこの屋上の散歩を囚人に禁じたことにサドが腹を立て、下水を流すために使われていた漏斗型のブリキの管を引き抜き、メガフォン代わりにして、街に面した窓から、通りにいる民衆に向かって大声で叫んだ事件。
この騒ぎによってサドは「危険人物」とみなされ、シャラントンの精神病院へ送られてしまいます。バスティーユを出る時、彼は所持品を一切持ち出すことができませんでした。「印刷屋に渡すだけの状態になっていた十五巻の書物の原稿」もその中にありました。
そして、その十日後にバスティーユは襲撃され、暴徒と化した市民たちがサドの独房だった部屋に押し入り、貴重な書籍や大事な原稿は蹴散らされ、破られ、一部は燃やされてしまいます。

1790年、シャラントン精神病院を出所した彼は50歳になっていました。今や無一文の侯爵は、すっかり肥ってしまい、かつての華やかな道楽者だった頃の面影はきれいに失われていました。投獄された時点でサド侯爵の人生は終っていたのです。

(その3)へ続く

(その1)へもどる
[PR]
by marikzio | 2006-03-12 17:56 | Book | Comments(0)

「サド侯爵の生涯」  澁澤 龍彦 著   (その1)
マルキ・ド・サドこと、ドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド。(1740-1824年)
『サディズム』の語源としても有名な18世紀フランスの作家。スキャンダラスな事件のため、人生の半分を監獄や精神病院で過ごし、インモラルな著書を数多く生み出した、まさに一世一代のリベルタン。また、歴史の教科書に必ず登場するフランス革命や恐怖政治など"あの"激動の時代を生きた当事者でもあります。
彼の作品は反社会的で過激な内容のため、決して高く評価されるものではなく、"発禁処分の猥本"として水面下で読まれて続けて来ましたが、20世紀に登場したシュールレアリスト達によって再評価され、日本でも故澁澤龍彦氏の名訳が残されています。

私がサドという作家に興味を持ったのは『クイルズ』という映画がきっかけです。精神病院に収容された晩年のサド侯爵が、自分の小説が発禁処分で執筆も禁じられていたため、シーツに小説を書きなぐったものを洗濯女が回収して、こっそり街の本屋に流出させているエピソードが印象的でした。最後にはシーツもインクも衣服も奪われ、自分の排泄物で壁に文章を書き連ねる、という壮絶な男の生涯。もちろん、この映画にはフィクションも織り込まれていますが、「クイルズ」を観てしまった私は「今のテーマはサド特集♪」とばかりに、入手可能な彼の本を立て続けに読んでみたものです。
映画「クイルズ」と彼の著作から受ける、私のサド侯爵に対するイメージは「狂人すれすれの天才」、「レクター博士のように決して近づいてはならない存在」という彼の小説に出てくる人物そのまんまでしたが、果たして生身のサドはいかなる人物だったのでしょうか?
この著書の概要を紹介しつつ、自分なりにサド侯爵について語ってみたいと思います。

出生と結婚
サド家の起源は古く、12世紀に遡り、代々南フランスのアヴィニョンに住む名家。父サド伯爵は外交官、母、マリー・エレオノールはブルボン王家の血を引く宮廷貴族の出身。二人の間に生まれたサド少年は、姉と妹が早く亡くなっているため、ほとんど一人息子状態。両親は長期に渡って留守がちな家庭で、親から受ける愛情は希薄なものであったらしい。そのうえ、浪費癖のある父親が家の財産をほとんど食い潰しているような状態だったため、事実上、没落貴族のようなものでした。
士官学校を卒業したサドは金髪、碧眼、豊頬の青年士官となり、軍隊生活中は「駐屯の度に情事にうつつを抜かしていた」と、軍隊での友人がサドの父親に宛てて書かれた手紙が残っています。軍隊から帰った彼は生まれて初めての大恋愛を経験しますが、愛する女性に病気を感染させたため、破談にされてしまいました。女とあらば尻を追い回し、放蕩に耽った軍人時代のつけがここにまわって来たのです。
傷心のまま、サド青年は23歳でパリの終身税裁判所名誉長官モントルイユ氏の長女と結婚することになります。この裕福な成金貴族との縁組みはサド家の財政的危機をかなり緩和し、モントルイユ家にとっても王家の血を引くサドの家名は魅力的なものであったので、双方の利害が一致するものだったのです。この結婚に最も積極的だったのは、花嫁ルネの母である、モントルイユ夫人。若い花婿の浪費癖や放蕩ぶりの噂を聞いてはいましたが、王家に近づく絶好のチャンスを逃がしたくはありませんでした。
「男なんだから女遊びの一つぐらいはする」程度には考えていたでしょうが、サドの放蕩ぶりは一般のソレとは明らかに質が違うものであったことはその時、予想だにしていません。

初めての入獄
1763年10月29日、パリ。
結婚から半年も経たないうちに、サドは「妾宅における度はずれな乱交」の廉でヴァンセンヌの牢獄に収監されることになります。そのうえ、結婚した翌月から頻繁にパリに赴いて、娼婦たちと乱交に耽っていた、という事実が明るみになります。
最初の投獄は15日間で自由の身にかえることができましたが、これを機に彼は"危険人物"として認識されるようになります。
『度はずれな乱交』とは具体的にどのようなものだったかは記録が残されていないのですが、「神をも恐れぬ忌まわしい乱交」だったそうで、これまで犯罪人扱いされたこともなければ、他人から嘲罵や侮蔑すら受けたことのないサド本人にとって、逮捕、投獄は、自分の性的嗜好が世間一般では受け入れられる物ではなかったこと、犯罪と扱われる物であったことを知らされる初めての機会でした。
「自分がしていたことは神の懲罰に値するようなこと。」この事実を受け止めた瞬間、サドはリベルタンとして生きることを決意しました。

※リベルタンとは・・・
ラシェーベル氏によると、リベルタンとは「17世紀においては独立精神および伝統への敵意を意味し、したがって信仰および宗教的行為に従うことを拒否する者を意味していた。18世紀において、その意味は道徳上の放埒にまで拡大された」のである。すでにルイ14世時代にマントノン夫人が、この言葉を放蕩児の意味に用いた例も見られる通り、リベルタンの意義は宗教的戒律に対する不服従から、性的束縛に対する不服従へと徐々に変化したのである。

貴族の家に生まれ、何不自由なく、親に対する反抗精神もなく、特権階級者としてぬくぬく育って来た彼ではありますが、今まで何一つ満たされていなかったことに気づきます。世俗的な名誉やら野心に何の魅力も覚えなかった彼が、唯一、我を忘れるほどに夢中になり、内側に秘めた熱情ををすべて昇華できる所というのが、娼家のような秘密の場所で、自分の夢想を思う存分実行できるような現場でした。そこは現実世界を超越し、己の全存在の炎、それが燃え上がる歓喜の瞬間を得ることができる神秘の場所。
「社会の除け者として、額に烙印を押されようとも、本来のあるべき姿の己であるために、自分はこの卑しい快楽を追及していくべきだし、それこそが自分に与えられた宿命だったのだ」
そう確信を得た瞬間、リベルタン、サドが誕生したのです。
しかし、彼が"性の反逆者"として開花するのは、もうしばらく先、そしてそこに到達するまでに実に多くの苦難と屈辱を味あわなくてはならなかったのです。

アルクイユ事件
1768年4月3日、復活祭の日曜日。
パリ市中央のヴィクトワル広場で、サドは36歳の乞食女ローズ・ケレルに声をかけます。「自分についてくれば1エキュの金をやる」というのに対して「自分はそんな卑しい素性の女ではない」と抗弁する女。しかし、侯爵は「そういう意味ではなく、ただ女中が欲しいだけだ。」と説明したので、安心した彼女は同行することを承諾しました。
その後、女を馬車に乗せ、パリの街を離れたアルクイユの村に到着。ラルドネ街の通りにあった、サドの別荘に案内され、その中の一室に閉じこめられた彼女は服を脱ぐように命じられ、笞で打たれました。
拷問が終った後、寝室に残された彼女は、部屋の窓から飛び降りて、別荘を脱出。道で出会った村の女性に泣きながら、事の顛末を訴えて大騒ぎになった事件。
これがまた一大スキャンダルとなってパリに広がり、事実が歪められ、伝説となって一人歩きしました。部屋には数体の死体があったとか、人体実験の跡があったとか、性倒錯者サドのイメージがますます増強され、彼の今後に不利に働く材料となって行くのです。

マルセイユ事件
1772年6月27日、マルセイユ。
ラ・コスト城に居を移したばかりのサド(当時32歳)が通称ラトゥールと呼ばれる下男のアルマンを伴ってマルセイユの街にやって来ました。ラトゥールが街の女に声をかけ、「女の子たちを集めてカピュサン街の隅のマリエット・ボレリという女の家に来て待つように。」と指示。
指定された場所に集まったのは4人の娘たち。そこに下男とともに現れた我らが殿。美男でいかにも金持ちの道楽息子、といった風情、お供のラトゥールも見るからに軽佻浮薄な若者的外見だったらしい。
女の子を一人ずつ部屋に呼び(それ以外の物は別な部屋で待機させ)、自分を娼婦に鞭打たせたり、下男も一緒に参加させ...(言わぬが花、という言葉もあるので以下自粛)、とにかく延々と乱交が行われました。サドは怪しげな飴を女に無理やり食べさせ、その後彼女は激しい腹痛と吐き気に襲われました。
二日後、女たちの一人が検事の前で、このことを証言し、この事件はアルクイユ事件をしのぐスキャンダルとなり、サドと下男は由々しき事態に追いつめられることとなります。この事件により、彼らの上に死罪の判決が下ってしまったのです。
死刑判決。どう見ても「バカ殿の乱痴気騒ぎ」というか度の過ぎた子どもの放蕩としか言いようのない、この騒動。猟奇的事件でもなく、死者も出ていません。しかし、当時、鶏姦や男色は性犯罪とされ、死罪になるほどのものだったのでした。出頭した娼婦でさえ、自分がされた行為の真実に口を割らないほど。同意の上ではなかったとしても、鶏姦したことを認めることは、自分も犯罪者になってしまうことだったのです。
二人はサドの妻である、ルネ夫人の計らいでイタリアに脱出し、警察の手を逃れて数年を過ごし、一度は捕まって、逃走。最終的には自宅のラ・コスト城にいたところをマレーにより逮捕され、ヴァンセンヌの獄に収容されてしまいます。この時、39歳。
死刑にはならなかったものの、ここから11年間に渡る幽閉生活が始まります。
最初の5年半はヴァンセンヌに、後半の5年半はバスチーユに。

私は疑問に思います。彼は11年間も投獄されるほど重度の犯罪者だったのか、と。
少なくとも彼は生涯のうちで、殺人は犯していない。自分の小説に書いているような、妊婦を牛に踏ませたり、女性の腹を裂いたり、なんてことはしてないのです。
確かにモラルの面では大いに首を傾げたくなる点もあります。ルネ夫人の妹である、ローネー嬢と禁断の恋に陥り、愛の逃避行。それだけでも不道徳極まりないのに、マルセイユ事件が起きたのは、このローネー嬢と激しく盛り上がっている時期と同じなのです。
代々、サド一族に受け継がれている遺伝子には金銭感覚の欠如があるのか、イタリアなどヨーロッパ中を旅行しては、何の値打ちもなさそうな美術品を大量に買い込み、ラ・コスト城に次々と送りつけ、ルネ夫人が食費や暖房を切り詰めてまで、金策に走らされています。

とにかく存在そのものがスキャンダラスだった、サド侯爵。
劇場に頻繁に足を運んでは、お気に入りの女優につぎ込んだり、お金もないのに、若い女中をたくさん雇って、自分の邸宅で妻を交えて秘密の大饗宴を催したり。
今風に言うならば、スノッブとかセレブとか言うんでしょうね。彼のいくところあらぬ噂がついてまわり、世間の人々が鼻をつまんでいる光景が目に見えるようです。彼を嫌っている男性は数多くいたと思います。
夫として、人間として「どうしようもない奴」の部類に入るサド侯爵ですが、生涯にわたって30年以上の幽閉生活という憂き目を見なくてはならないほどの悪人だったのでしょうか?それとも、私の感覚が麻痺してしまったのでしょうか?
実は、この逮捕・投獄の背景には義母であるモントルイユ夫人が影で手を引いていたということがあります。(その話については次回)
その後、王政が崩壊して共和制が誕生する、という時代の大きな変化が訪れ、彼は釈放され、身分の高い職に就いたりする転機がやって来ますが、自分の執筆した作品がもとで、再び投獄されたり、精神病院に送られるなど、サドはまたしても囚われの身となります。
しかし、皮肉にも、この長期にわたる獄中生活が、彼の執筆活動を進めるきっかけとなりました。膨大な量の書物を読み、精力的に数多くの小説を生み続けたサド。自分の置かれる境遇に対する怒り、全てを奪われたことに対する怒りは、紙とインクに託すしか術がなかったのです。人間として生きて行くのに、あらゆる事を制限され、手足を失ったも同然の彼は、厳しい状況の中、眼病をも患いながら、熱情に突き動かされるようにして、ひたすら毒を吐き続けたのです。
投獄されるまで彼は、ほとんどペンを執りませんでした。リベルタン実践者としての修業に忙しく、本を書く暇などなかったのです。
不当とさえ思われる投獄生活は、後に名を残す怪物作家、マルキ・ド・サド誕生のために、必然的なものだったのかも知れません。

(その2)へ続く
[PR]
by marikzio | 2006-03-07 18:57 | Book | Comments(0)

「O嬢の物語」  ポーリーヌ・レアージュ  澁澤龍彦 訳 
〜注意!!R18指定(爆)〜

1954年、パリで発表された"知る人ぞ知る"エロティック文学の大傑作です。
原題は「Histoire d'O」。作者名のポーリーヌ・レアージュという女流作家は実在せず、未だに正体が明かされていないようです。
寺山修司脚本による映画「上海異人娼婦館  チャイナ・ドール」(1981年)はこの小説が原作となっています。

パリに住む、マドモアゼルOは、ある日、恋人のルネに公園に連れ出されます。
公園の一角の街路の隅に止まっているタクシーに誘われるままに乗り込むO。自動車の中で所持品を奪われ、目隠しをされた彼女が車を降りたのは謎の大きな城館の前でした。

案内された部屋には18世紀の小間使いのようなコスチュームを着た二人の若い女性がいて、Oは入浴と化粧を施されます。
この館の女性たちは皆、アイシャドーと濃い口紅を塗り、皮の腕輪と首輪を身につけ、コルセットやふんわりした大きなスカート、という独特の服装。男性たちは紫色の長いガウンを羽織り、ベルトには皮紐の鞭を差して歩きまわっています。
この館の女たちは男性に対して絶対服従。男たちが望めば、否応なしに鞭で打たれ、何人もの男たちに陵辱されるのも、じっと受け入れなければなりません。
こんなアンダー・グラウンドな館に連れてきたのはOと愛し合っているルネ。彼もまた、この館の謎の男たちのメンバーであり、Oを愛しているからこそ、ここに連れて来たのです。
「前から君に淫売をさせてみたかった。」Oはルネに従属するものであり、ルネの所有物であるOは彼のいかなる要求にも応じなければならない。この館にいる限り、Oは館の男たちの共有物であり、ルネが見ている前でも、男たちに身をまかせなくてはならない。
ルネを深く愛しているO。ルネもまた自分を愛している、と実感しているからこそ、Oはあっさり拘束状態を受け入れ、自分自身を放棄していきます。
しかし、Oがこの城館を去る日が突然やって来ました。
この館で過ごした女性はその証として、鉄の指輪を与えられます。一般社会でこの指輪の秘密を知る男性に出会ったら、進んで彼の思いどおりにしなくてはならない、と申し渡され、Oはルネと一緒に車に乗り、館をあとにします。
この城館は小さな村落にありました。道路標識に書かれた村の名はロワッシー。

住み慣れたアパートに戻ったOは再び、愛するルネとの共同生活を再開します。
実はファッション・フォトグラファーであるO。仕事復帰を果たしますが、以前の彼女とは明らかに何かが違っていました。
ある日、Oはルネにある男性と引き合わされることになります。
ルネより10歳ぐらい年上のイギリス人男性、ステファン卿。血は繋がっていないけれど、兄弟同然のように育ったステファン卿をルネは敬愛しており、自分の恋人であるOをステファン卿と共有しようと考えていたのです。ステファン卿に喜んで欲しいから自分が最も慈しんでいるものを差し出し、献上しようとしているルネ。
二人に従属することをステファン卿とルネに半ば強引に承諾させられたOですが、次第に自分の心がルネからステファン卿に支配されていくのを認めます。

カメラマンであるOはロシア系の売れっ子モデル、ジャクリーヌは絶対にルネとステファン卿の気に入るに違いない、と踏んで彼女の写真を差し出します。
そのせいで「ジャクリーヌをロワッシーに連れ出すためにうまく誘い込め」とステファン卿から思わぬミッションが課せられてしまいます。
可愛いジャクリーヌを騙し、あんな恐ろしいところへ連れ出すなんて、いくらステファン卿の命令でも、行動を起こすのが憚られてしまいます。

躊躇し、プロジェクトが進まないでいたある日、Oはステファン卿に再び呼び出され、彼と同年代のマダムを紹介されました。彼女の名はアンヌ・マリー。
実はとんでもないオバサンで、ステファン卿はなんとOに自分のイニシャルの入った重い鉄輪をOの両脚の間に装着させ、お尻に焼き鏝を刻むためにアンヌ・マリーの家に送り込んだのです。本編の中でここの描写が一番強烈でした。ここの部分は何度も顔をそむけながら読みました。
しかし、Oは何の抵抗もなく受け入れてしまうのですね。
「お前の体はもう自分の物ではない」と何度も調教され、拘束されることに喜びを見出してしまった彼女は愛するステファン卿のイニシャル、それも一生消すことができない烙印を喜んで自分の身体に刻みつけるのです...。

そしてラストのフクロウの仮面を被せられ、鎖でつながれて夜の舞踏会に出かけ、見せ物にされる驚愕の場面。Oはもはや人間ではなく、オブジェとして、完全に人格を奪われてしまいます。自由奔放だった一人のパリジェンヌがある男性と出会ったことにより、その肉体を傷つけられ、性器を封鎖され、最後には人間性までも奪われてしまうという、まさに戦慄のラヴ・ストーリー。読んだ者にとって、このシーンは一生頭から消えないのではないでしょうか?忘れてしまったとしても、意識のHDにしっかり記憶されていて、何かの拍子にファイルが起動してしまうに違いありません。

実は最後の章が削除されていて、私は最後まで読んでいません。
最後の章ではOは再びロワッシーに還り、ステファン卿に捨てられるようです。愛する男に捨てられることに絶望したOが彼の許可を得たうえで、自殺することになっているらしいのですが、この結末はどこか切なくて泣けます。
続編として「ロワッシーへの帰還」(おそらく削除された章)が日本でも翻訳版が刊行されているみたいですが、今は絶版となっていて入手困難なようです。

ヒロインの名前になっている"O"。まるで記号のようですが、これは女性器の形をなぞらえた物だとされています。余談になりますが、池田満寿夫の小説「エーゲ海に捧ぐ」の"エーゲ海"もこれを暗喩しているそうです。
エロティック描写ばかりが取り沙汰されがちですが、ほんとは実にスタイリッシュでかっこいい作品だと思います。
例えば、Oが撮影したジャクリーヌの写真をいっぱい並べたテーブルの上で、ステファン卿に押し倒され、写真に取り囲まれた、という描写があったのですが、これがまた実に映像的で映画の一場面のようだと思いました。
翻訳者である澁澤もあとがきの中で「たとえば、唇と膝とをけっして閉じ合わせないことを、O嬢はロワッシー館で男たちから厳命されるが、そんな姿勢のマネキン人形やファッション・モデルを、当今、読者諸君は高級洋裁店のショー・ウインドーや服飾雑誌のグラビヤ・ページなどにながめたことはないだろうか。とくに近ごろ、流行の先端を行くスタイルの女の子は、ほとんど唇を薄くあけ、膝を大きく開いているのにお気づきではないだろうか。」と記述しています。
やはりこの「O嬢の物語」は時代遅れで野暮ったいどころか、今でも斬新で強烈なインパクトを放ち続ける不朽の名作なのです。

※追記
ポーリーヌ・レアージュの正体は20世紀後半の半世紀にわたって、敏腕の編集委員にして著名な批評家、翻訳家であり、また権威ある文学賞の審査員などを務めたフランス文学界の重鎮ドミニック・オーリ女史であったことが彼女の死後、ようやく明らかになったそうです。
男性説(批評家ジャンポーラン氏)もあったそうですが、やはり女性だったのですね。

関連記事 「新・O嬢の物語」
[PR]
by marikzio | 2005-08-29 22:29 | Book | Comments(0)


marikzio=mahのブログにようこそ。私の好きな音楽や映画を紹介しています。
カテゴリ
ブログパーツ
最新のコメント
通りすがりです。 ペイ..
by 通りすがり at 23:57
https://www...
by Two-Tribes at 01:02
https://www...
by Two-Tribes at 23:51
シリーズ恋物語 「エロス..
by りゅう at 16:21
就小说艺术的角度而言,这..
by 安全套 at 01:47
I like the h..
by Cheap Snapbacks at 07:20
Hi there ver..
by Louis Vuit at 13:44
It¡¦s in poi..
by Pandora Charms at 17:50
millefeuille..
by marikzio at 14:01
あけましておめでとうござ..
by millefeuille at 20:50
☆Link☆
タグ
以前の記事
検索
ライフログ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧