「サド侯爵の生涯」 澁澤 龍彦 著 (その3)
2006年 03月 15日
晴れて、自由の身となったサド。しかし、それと同時に彼は、思ってもみなかった冷たい仕打ちを受けるのです。
出所した翌日、サド侯爵夫人が身を寄せるサン・トール修道院を訪ねた夫は、面会を拒絶されてしまいます。離別の意志を明らかにした夫人の態度はサドにとってはまさに晴天の霹靂。彼女は長年に渡って忠実な囚人の妻であり続け、老いて弱った体をおして、バスティーユ監獄に足繁く通ったほどだったのに。
実は、サドもバスティーユ時代から、妻が自分と別れたいと思っていることはうすうす悟っていたらしい。しかし、囚人にとって、妻の存在だけが頼りだったので、そのことには気づかないふりをしていたのです。
修道院生活に入り、子どもも成長してしまった夫人にとって、いまやサドは煩わしいものでしかない存在。出所した今、自分が夫にしてあげるべきことは、もう、なくなったのである。今で言う『熟年離婚』に近いものがあるのかも知れません。
手の平をかえすように冷酷な妻の態度を恨みがましく思いながらも、ブーロワル街のホテルの一室で、新しい生活を始めるサド。シャラントンの修道士に預けてあった家具や衣類は長男のルイ・マリーが運んでくれました。
しかし、さすがに生活に窮したので、義母のモントルイユ夫人のところへ生活費を借りに行きます。数ルイの金を貸してはくれたものの、早く自活の道を講ずるようにと意見する義母の態度にルネ夫人が別離を決意した背後に母親が絡んでいることを、サドはその時確信しました。
カトリック信者は離婚が禁止されているので、ルネ夫人はパリ裁判所に夫婦別居の申請。同時に持参金としてサド家に受納されていた十六万八百四十二リーブルの金の返却を要請します。計算高いモントルイユ夫人の入れ知恵であることは間違いありません。
そして、入獄前にサドと関わった他の誰も、彼に救いの手を差し伸べてやろうとした者はいませんでした。二人の息子を除いて。
新しき伴侶、演劇と本の出版
こんな風に踏んだり蹴ったりな人生の再スタートを切ったサドですが、青年時代からずっと情熱を燃やしていた戯曲の活動を本格的に始めます。劇場の楽屋や廊下に何度も出没して、以前のように若い女優に言い寄るのではなく、ひたすら自作の脚本を売り込みに奔走します。
韻文劇『誘惑者』がイタリア座の脚本審議会を通ったり、コメディ・フランセーズの脚本審査会で『閨房、あるいは信じやすい亭主』を自ら朗読して聴かせたり。今日、18世紀の小説家として認識されているサドですが、もともとは戯曲の世界に憧れていた人であり、劇作家になることが夢だったようです。
それと同時に配偶者と別れたばかりの女性(当時40歳)と交渉を持ち、彼女が所有するアパートの一室で生活するようになります。しかし、その女性との関係は長く続かず、1790年、別の女性が彼の前に現れます。マリー・コンスタンス・ルネルという30にも満たない若い女優。夫であった商人バルタザール・ケネーは妻を捨て、アメリカに渡り、彼女には連れ子が一人。この時、50歳を過ぎていたサド、相変わらず、というべきか天晴れというべきか。しかし、このケネー夫人とは非常に相性が良かったらしく、若い時のような情熱的な恋愛関係というより、老夫婦のようなほのぼのとした愛情関係が晩年まで続きました。あれほどまでに色好みだった元侯爵は、彼の良き理解者であるケネー夫人以外の女性に気が行くようなことはなくなったのです。
バスティーユ時代に書かれた『オクスティエルン』が1791年10月22日、モリエール座で上演されました。これが初めて舞台に乗った戯曲。『オクスティエルン』大成功を治め、11月4日に二回目の公演となり、その晩の成功を当時のモニトゥール紙がかなり詳しく伝えられています。
イタリア座で採用された『誘惑者』は本番当日、幕があがった瞬間にジャコバン派のグループに妨害されて断念。妨害の理由は「貴族的だったから」という政治的理由によるもので、彼の芝居が上演されたものは、事実上『オクスティエルン』だけとなりました。それ以降にも戯曲をたくさん書いて、売り込み活動はしているものの、採用には到らなかったのです。
同年に、小説『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』が上梓され、これが市場に出回った彼の初めての著書となります。言うまでもなく、バスティーユ時代に書いた『美徳の不運』のリメイク作品。もっとも、オリジナル作品は紛失して、生前彼の元に戻らなかったのだから発表されることもなく、そういう意味で結果的に、これが「ジュスティーヌ物語」の第1作となったわけです。
本人曰く「金のために、出版者の求めるままに、悪魔も鼻をつまんで逃げ出すような不潔な作品」だったそうで、あまりに不道徳で猥褻な内容のため、版元はオランダ、作者は死んだもの、とされました。この二巻からなる皮装丁の好色本は売れに売れ、死んだはずの作者の台所事情にも大いに貢献したのです。
ジャーナリズムがこぞって「『ジュスティーヌ』の作者はサド」と論じるのに対し、サドは生涯、それを否認し続けています。
恐怖政治とラ・コスト城の破壊
サドが釈放された1790年はまさに恐怖と無秩序の時代。
1791年6月20日、パリを脱出しようと目論んだルイ十六世一行がヴァレンヌで捕らえられてパリに護送。ロベスピエールの独裁政治が猛威を振るって、王党派や穏和主義者は次々に首を切り落とされたという、戦慄の時代。フランス革命の空気はフランス全土に広がって、地方では農民一揆が続きました。
1791年8月10日にはパリで暴動が起こり、それに続いて9月2日、パリ中の監獄が襲撃され、貴族、僧侶、女から子どもまで、1,100名から1,400名の者が大量虐殺されるという「9月の大虐殺」が勃発。
サドが書いた手紙によるとマリー・アントワネットの幼友達であるランバル侯爵夫人が犠牲者となり、その首が槍の先に突き立てられ、王妃と王の目の前に差し出され、胴体は卑劣きわまる辱めを受けた末に、街中を引きずりまわされた、と記述されています。まさに、自分が書いた小説に出てくるような血みどろの光景にサドは震え上がるのです。
余談になりますが、ギロチンって最高に身分の高い人のための処刑ですよね。逆に一番卑しい身分の者はイエス・キリストが十字架にかけられた磔刑とか火あぶりとか。どれも公開性があって、一般市民は罪人が処刑される瞬間を見学しに集まったりして、死刑って庶民の残酷趣味な娯楽だったのでしょうか?
「9月の大虐殺」の勢いは地方にも飛び火して、かつてのサド邸だったラ・コストの城にも約80人の村民が侵入し、滅茶苦茶に破壊してしまいました。このニュースを聞いた時、サドは「自殺してしまおうか」と思ったほど衝撃を受け、落胆してしまいます。
ここで、ちょっと脱線。
ラ・コスト城
プロヴァンス地方はアヴィニョンの近くにあるラ・コスト城。
芝居フリークだったサド侯爵が招待客の前で自作の戯曲を上演したり、若い女中や下男を集めて秘密の饗宴を開いたりした、彼にとって最も華やかなりし時代の思い出が詰まった館。
現在、200年の歳月を経て老朽しきった廃虚ではありますが、公開もされていて、フランソワ・オゾンの映画『Swimming Pool』の中で女流作家役のシャーロット・ランプリングが見学しているワン・シーンがあります。天井はなく、崩れた壁と煉瓦、石の階段という文字どおりの廃虚の光景。私は実際に行ったことがなく、饗宴が行われた部屋とか寝室とか見てみたいとは思うけれど、立ち入り禁止になってるのかも知れないし、風化が進んでしまって、壁も床もなくなってるのかも知れません。名高い性犯罪者だっただけに、現場に資料とか写真の展示もなさそうな感じだし。映像で疑似体験してるだけで充分な気がします...。丘から見下ろす景観は南仏的できれいでしょうけど。
サドは一時期、ピック地区の委員長にまで昇格し、公の名士として活躍するようになったのに、「反革命派」という疑いをかけられ、再び逮捕されてしまいます。貴族出身という微妙な身分が災いしたのです。革命政権下で監獄や修道院などの施設にたらい回しにされ、自分の隣で悪性の熱病に罹った囚人が死に、1,800人もの受刑者を庭に埋める仕事もさせられました。彼自身も処刑者リストに名前が載ったこともあり(結局はギロチンを免れましたが)、自分で紙の上に描いたバーチャルな暗黒世界をまさにリアルで実体験することになったのです。まるで彼の小説が近い将来を予言していたかのように。
そんな地獄絵図のような時代が終焉したのは1794年7月28日。午後7時半、ロベスピエールら22名のテロリストが革命広場で処刑されました。これが世に言う「テルミドールの政変」です。
そして、それから一ヶ月半後にサドは釈放され、ケネー夫人と同棲生活に戻ることになりました。
貧窮を極めた生活
自由を取り戻したとはいえ、職を追われ、俗世間からかけ離れた、処世術が著しく劣っている男。こんな人物が人並みの収入を得て生きていくのは想像以上に困難なことなのです。当然、生活は困窮し、お金を稼ぐため、1795年、彼は再び本を出版します。
哲学小説『アリーヌとヴァルクール』と匿名で出版した『閨房哲学』。
『閨房哲学』
河出文庫『閨房哲学』。
「『美徳の不幸』の作者の遺作」だなんて、「ジュスティーヌ」の商業的成功を再び狙った魂胆がミエミエですね。私は手元に持っていますが、まだ未読。
「閨房」とは寝床を意味しています。"寝床の哲学"、それがどんな内容なのかは言わずもがなでしょう。
当時、添えられたエピグラフは「母親は娘にこれを読ませねばならぬ」。
その二年後に発表された『新ジュスティーヌ』および続編『ジュリエット物語』。
"遺作"だなんて言ってて、生きてんじゃん!(と、突っ込みたくなりますよね)
もちろん、この手の好色物は超売れ筋。『新ジュスティーヌ』と『ジュリエット物語』は分けて買うこともできたそうです。
『新ジュスティーヌ』
河出文庫『新ジュスティーヌ』
1791年の『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』の続編かリメイク版。『オリジナル版ジュスティーヌ』にさらに過激な描写を加え、ヒロインをいたぶる悪党どもによる"オレ様哲学論"が延々と語られ、厖大な量に膨れ上がった本文の中から澁澤氏が一部のエピソードを抜粋して全体の4分の1を抄訳。
原ジュスティーヌが淡々と綴られ、ストーリーもわかりやすく読めるのに対し、リメイク版はひたすら冗漫で、無駄が多いように感じます。生きるのが下手なオリジナルのヒロインは、その不器用さのために災難に見舞われる、という設定がどこか寓話的でリアリティーが感じられるのに対し、新ジュスはペルソナージュが希薄で、人形のようにいじめ抜かれています。生々しい場面が多くなっているのは読者受けを狙ってのことでしょうか?
ナポレオンがこの作品を読み、サドは死ぬまで精神病院から出られなくなってしまうのです。
『ジュリエット物語』
河出文庫『悪徳の栄え』
「美徳のジュスティーヌ」と対をなす「悪女ジュリエット」の物語。
ジュスティーヌの姉ジュリエットが何のためらいもなく娼婦の世界に飛び込み、背徳の世界で生き抜くための悪徳修業を経て、あらゆる悪党と知りあいになって、出世して行くストーリー。鶏姦、裏切り、殺人、何でもアリのヒロインは巨万の富みと地位を手にして、悪の賛歌を高らかに歌う。「ほうら、悪が勝利するのじゃ!ぐわっはははは」という作者の高笑いが聞こえてくるような...。
澁澤氏はこれもオリジナルの3分の1に抄訳しているのですが、それでも上下二巻。長かったです...。
サド作品って、実は読んでいてそれほど愉しいものではなく、むしろ退屈で、不愉快な気分になります。やたら小難しい哲学的理論を延々と展開して、それで無駄にページ数を稼いでいるという感じです。「悪徳の栄え」はそんなサドの負の特徴が最も端的に出ていて、そういう意味でもこれは大傑作です。
気づくと「何でこんなことをするんだろう」と真面目に腹をたてている自分がいたりして、でもその怒りって、サドが人生の中で社会から受け続けて来た仕打ちに対しての怒りが移っているものなのかなぁ、と思ったり。実際、サドが抱いた怒りなんて、こんなものじゃなかったんでしょうけど。
「読んでヤな気分になるなら最後まで読むなよ」なんて言われそうですが、この退屈というのが不思議とやめられなかったりして、それがサド文学の毒であり、魅力なのだと思います。
生活の苦しさは一行に緩和されず、プロヴァンスにある土地やラ・コスト城まで手放します。ついに万策つきて家を売り払い、ケネー夫人は友人の家に、サドは昔使っていた小作人の家に転がりこむところまで行ってしまいます。要するに乞食同然の生活。
贅沢三昧に暮らした不良貴族がこのような貧困者に身を落すことになるとは、誰が予想できたでしょうか?もはやかつての高慢で幼稚な放蕩者とは別人物なのです。
1800年、貧窮のどん底に陥り、ヴェルサイユの慈善病院に入り、この年の10月、「恋の罪」を刊行します。
『恋の罪』
河出文庫『恋の罪』。
これはサドの名前で出版。悪意ある批評家たちが「『ジュスティーヌ』の作者と同一人物である。」とこぞって書いたのに対し、憤然として抗議。
だから、バレバレなんですってば!
逮捕と拘束
『新ジュスティーヌ』刊行から4年後、出版元のマッセ書店が警察の捜査を受け、その場に居合わせたサドは御用、となってしまいます。
再び牢獄生活へと突入。2つの獄を渡ったあと、健康状態を心配した家族の要請により、シャラントン精神病院へ。再びこの病院の門をくぐることになりましたが、これを最後に、サドは二度と娑婆の世界に戻ることはなかったのです。
シャラントン精神病院は監獄よりもはるかに居心地の良い場所でした。院長クールミエの好意により、病院内に劇団を組織して、自作の芝居を上演します。役者は同じ病院の患者たちで、外部から招待客を呼んで公演会は開かれました。執筆活動では『エミリーの物語』、『フロルベルの日々、あるいは暴れた自然』を浄書。
1811年、『新ジュスティーヌ』の新版が再びパリに出回り、病院内で何回か訊問を受けることになります。出版社の商魂のたくましさが伺われるエピソード。
比較的、優遇されていたサドの病院生活でしたが、シャラントン病院付医師長ロワイエ・コラールが彼の存在を心良く思わず、次第に院内での活動が制限されて行き、ついには一切の芝居活動が禁止されてしまいます。
ナポレオンに健康の衰弱を理由に保釈を申請するも、彼が汚らわしい『ジュスティーヌ』の作者である、という理由もあって留置が決定し、サドは人生最後の日をここで迎えることになってしまいます。
そして、死
1814年。74歳になっていたサドは日に日に健康が衰え、歩行不能に陥ってしまいました。
12月2日、次男アルマンが午前中、病床の父を見舞いに来ましたが、病院付実習生のラモンに看病を依頼して帰宅。同日午後十時頃、サドは医学生に看取られながら死にました。ラモンの診断によれば喘息性肺栓塞。
「余の棺はヴェルサイユ百一番レガリテ街の材木商はル・ノルマン氏に作らせ、遺体は氏の護送のもとに、エペルン近在エマンセ郡マルメゾンなる余の土地の森に運ばれ、いかなる形の葬儀の形を取らず、前記の森の右手に位置する叢林の下に墓穴を掘って安置して欲しい。墓穴の蓋を閉めたら、その上に樫の実を蒔き、余の墓の跡が地表から見えないようにしてもらいたい。余は人々の記憶から消し去られることを望む。」と書かれた彼の遺言はことごとく破られました。ル・ノルマン氏に連絡はされず、遺骨はシャラントン病院付属の墓地にカトリック教会の方式に従って埋葬され、墓には十字架が建てられました。
次男アルマンは不心得者で病院に残された、かなりの量に及ぶ原稿は警察と一緒に焼却し、他の一部は箱の中に封印して、サド家で五代の間、門外不出の扱いになったのです。罰当たりな息子もいたものです。
本著の最後の方で澁澤氏は、マドレーヌという16歳の少女との最後の恋とジャンヌ・テスタルという当時20歳の娼婦の供述、という補遺を添えています。
前者はシャラントンの病室で出会った雑役婦の娘と死を直前にした70過ぎの老人が親密な関係にあり、少女は「また来るからね」と約束したのに、サドが急死して逢瀬が果たされず、彼の最後の女性はケネー夫人ではなく、実は50歳以上も歳の離れた女の子だったというお話。まさに死ぬまで現役だったとは。
しかし、それよりも後者のお話の方が興味深いです。当時23歳ぐらいだったと思われる、投獄前のサドらしき人物がジャンヌ嬢にキリスト像の前で神を冒涜するような行為を行い、彼女に「自然に反する方法で交わりたい」と言い放ったこと。
それこそがリベルタンとしてのサド!彼の全存在を象徴するようなエピソードです。
彼は生まれて来る時代を間違ったのでは?200年遅く、この世に誕生していたら、それほど不幸な人生を送らないで良かったのに。
学校の教科書には絶対に登場することのない、この前衛的な思想家は、しかし、18世紀時代のフランス哲学を語るうえで欠かせない存在であるのです。次世代の文学者、思想家、心理学者にインスピレーションを与えた偉大な星として、今もなお君臨しているのだから。
(その1)
(その2)