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「サド侯爵の生涯」  澁澤 龍彦 著   (その2)

モントルイユ家の女たち
独身時代から遊蕩者という悪評が絶えず、汚点だらけであった青年ドナチアン。彼の縁談がこれまで何度も失敗しているのも実はその為であり、そんな彼を敢えて受け入れ、その人生に割り込むこととなったモントルイユ家の女たち。度重なる不祥事や遊興で膨れあがる負債。婿に翻弄された彼女たちもまた、彼の人生を支配下に置き、その運命を掌中に治めていたのです。ここで、サドの義母と妻、その家庭について簡単に述べたいと思います。

義母、モントルイユ夫人
小柄で魅力的な美人。愛嬌があって華やかな人でしたが、狐のようにしたたかで、野心的。
ドナチアンの悪評に目をつぶってまでも、縁談に積極的だったのは、王家と血縁を結び、婿に宮廷で身分の高い地位についてもらうことを望んでいたが為。しかし、野心なき花婿はそういう社会的名誉にまるで関心を示さず、義母の過干渉を疎ましく思う始末。
最初、モントルイユ夫人は婿に好意的で、最初のスキャンダルでヴァンセンヌに投獄された時も請願運動をして、彼が出所するのを助けたりもしたが、妻ルネの実妹であるローネー嬢と関係したことをきっかけに敵対するようになる。
モントルイユ夫人の積極的な運動により、何年も逃亡生活を続けていたサドは逮捕され、長い牢獄生活へと送り込まれることになった。彼にとってはまさに悪魔のような女。

妻、ルネ夫人。
前回も書いたように、この結婚は両家の利害関係が一致した政略的な結婚。
しかし、おとなしく貞淑なルネにとってはサドは純粋に愛するする夫であり、若い舞台女優や実の妹など、数々の不貞を黙殺し、夫が収監された時代もずっと影で支え続けた。
容姿もスタイルもそれほど目立つものではなく、生真面目な妻をサドは少々、面白みのない女だと思っていたようだが、捕らわれの身である彼にとって、唯一頼りにできる身内であり、わがままを受け入れてくれる存在であった。彼との間に二人の息子と娘をもうけている。
しかし、サドがようやく11年間の牢獄生活から開放される時が来た時に、ルネ夫人は29年間の結婚生活に終止符を打つことを表明し、修道院で隠遁生活に入ることとなる。
長男ルイ・マリー次男のドナチアン・クロード・アルマンは父のことを生涯恥じて、ルイ・マリーは兵役中に偽名を使っている。長女マドレーヌ・ロールは知恵遅れであったらしい。
なお、三島由紀夫の戯曲「サド侯爵夫人」は本著「サド侯爵の生涯」が母胎となっている。

ローネー嬢。
ルネ夫人の実妹。姉よりも6歳年下で、容姿も彼女より優れていた。
最初、サドは彼女と結婚したがったのに、モントルイユ夫人がこれを阻止して、地味なルネと結婚させた、という俗説もある。
修道院で教育を受けたあと、俗世間に出て姉の婿、サドと出合う。好奇心旺盛で、冒険心のある魅力的な美少女というから、サドが夢中になったのも無理はない。二人の関係は秘められたものであったが、サドの起こしたマルセイユ事件で動揺した彼女が家族に口を滑らせて発覚した。ルネ夫人はこれを黙認していた、とも言われている。
マルセイユ事件で死刑宣告を受けたサドはローネー嬢を連れてイタリアへと逃亡の旅に出る。
嫁入り前の娘を娘婿に傷物にされたことに腹をたて、これをきっかけにサドと敵対関係になったと言われている。しかし、ローネー嬢は天然痘を患い、ラ・コスト城でその生涯を終えることになる。

フランス革命までの牢獄生活
『城壁には入口が一つしかなく、二人の歩哨が番をしている。三つの城門はいつもぴったり閉ざされている。四つの塔の内部に区切られたすべての部屋は、囚人の独房である。それは二重の鉄扉で閉ざされている。壁の厚さは十六尺で、天井は三十尺以上の高さである。この暗い部屋には、太陽の光の差しこむ窓すらないので、常に永遠の夜が支配している。鉄の格子戸は、狭い明かり取りを遠ざけている。中庭のほうに向かっては窓もあるが、堀の胸牆頂きに突き出た城壁の内部の部屋にはそれさえない。言うまでもないが、囚人の部屋には夜でも昼でも錠が下ろされ、閂がかけられている。』
(ミラボー『拘束状と国家監獄論』1782年 より)

1778年9月、ヴァンセンヌの城砦の第6号室で幽閉生活に突入したサド。ここの独房で5年半を過ごした後、ヴァンセンヌの牢獄は閉鎖となり、バスティーユ監獄に連行された彼は、「自由の塔」と呼ばれる獄舎で獄中生活を続けることになります。1789年の7月、サドはある騒ぎを起こして、監獄から精神病院へ送られ、その直後に革命が勃発。憲法制定審議会の訓令により、ようやく彼が自由の身となり、娑婆の世界に出た時は、ヴァンセンヌ投獄から11年の歳月が流れていました。

孤独と厳寒、神経衰弱。火の気のない獄中、空さえ満足に拝めない劣悪な環境の中で、夜はネズミが布団の中に入って来るのではないかと怯えながら、ひたすら身内に手紙で窮状を訴え続けたサド侯爵。ルネ夫人との初面会が許されたのも、入獄してから4年の月日が流れていました。
長期に及ぶ監禁生活のせいで、彼の神経は苛立ち、獄史と度々大喧嘩をするようになっていました。そのことによって、散歩が禁止されたりなど、余計に拘束を強いられるという悪循環。妄想に取りつかれるようにもなっていて、数年ぶりに妻との再会を果たすも、「夫人がある男と浮気し、姦通している。」と疑うようになって、手紙で激しく彼女をなじるようになります。嫉妬に狂った夫の執拗な追及に、侯爵夫人は愛想をつかすどころか、身の潔白を証明するために修道院で暮らし始めるという涙ぐましさ。家計はすでに火の車でしたが、囚人の際限ない物資の無心にもできるだけ応えようと努力し、夫の釈放のためにあらゆる事を試みます。
しかし、その甲斐なく拘留期間は引き延ばされ、時間だけが残酷に過ぎて行ったのです。

牢獄文学者の誕生
外の世界から遮断され、己の内側の声に耳を傾けるほかない彼にとって、残された唯一の愉しみは、子どもの頃から親しんでいた書物の世界に没頭することでした。時に「囚人の頭を興奮させ、好ましからざる事を書かせる」という理由で一切の書物が取り上げられることもありましたが、今の彼にとって、「想像力の赴くままに書くこと」が己の不幸を忘れることのできる慰みとなっていたのです。4年間の間に読んだ書物は膨大な量となり、ダムのように蓄積した知識や想像力が噴火口のように、ペン先からほとばしり出るのはもはや時間の問題。
1782年7月12日、サドはついに対話形式の哲学的小品『司祭と臨終の男との対話』および『随想』を含む一冊の手帖を脱稿。しかし、暗闇の中の蝋燭の下で何日も細かい字を書き続けたために、彼は眼病に悩まされるようになりました。満足に眼科治療も受けられない悪条件の中、サドは取り憑かれたように執筆を続け、内側で炸裂する怒りの炎を暗黒文学へと昇華させて行きます。
バスティーユで彼は『ソドム百二十日』の浄書を終え、その後、わずか15日で中編「美徳の不運」を書き上げます。
バスティーユ牢獄時代、50編にもおよぶ短編および中編小説を書いたサド侯爵。その人生の中で、創作活動が最も旺盛だった時代であり、作家サドが行動を開始した最初の地点でもあります。しかし、1789年のバスティーユ襲撃によって、書き留められた膨大の量の原稿は暴徒たちによって踏み荒らされ、紛失してしまいます。そして、二度と本人の手に戻ることはありませんでした。
しかし、その四散した原稿の中には彼の死後、運良く発見されたものもあり、出版され、今日、読むことができるものもあります。
その中で代表的なもの、私が印象に残っているものを紹介したいと思います。

『ソドム百二十日』
ルイ十四世時代末期、殺人と汚職によって、莫大な私財を築き上げた4人の悪徳老人が「黒い森」の人里離れた城館で42人の男女ととも120日間に渡る"ソドミーな大饗宴"を催すお話。数多くの美男美女が陵辱され、虐殺されていく描写が気持ち悪くて、腹立たしくもありました。(ただのフィクションなのに...)
奔放な想像力、残虐でエロティックな妄想、反社会的なサドの思想が結集した大傑作、と言われています。性倒錯嗜好のデパート、とでもいうべき内容で心理学者にとって重要とされている作品なんだそうな。襲撃で紛失してしまい、サドは生涯にわたって、このことを悔やんでいたそうですが、彼の死後に発見され、襲撃から120年後に出版。彼の未完の最高傑作は1世紀以上の時空を経て日の目を見ることになったのです。

『美徳の不運』
河出文庫では『美徳の不幸』というタイトル。
美徳のジュスティーヌと悪徳のジュリエット。この対称的な姉妹の物語はサド文学を読んだことのある者にはお馴染の代表作。とくに美徳に生きることを選んだためにヒロインが次々に酷い目に遭う『ジュスティーヌ物語』をサドは生涯にわたって3バージョン書いており、まさに彼のライフ・ワークともいうべき題材。
「原ジュスティーヌ」とされる本作はサドがバスティーユ監獄でわずか15日で書き上げ、その翌年に加筆・訂正を加えてボリュームのある中編小説に仕上げたもの。これもまた、襲撃のどさくさに紛れて永いこと紛失していましたが、1909年、パリ国立図書館でアポリネールにより発見され、1930年にモーリス・エーヌにより紹介・刊行。『ソドム百二十日』と同じように100年以上の眠りから復活して、今日に到っています。
生みの親が死に、世紀が変わってから日の目を見る作品というのは、やはり生命力を持っているのだと思います。どちらも凄いエネルギーだ。

家が破産し、父は国外へ追われ、母が悲しみのあまり死ぬという不幸に見舞われたジュリエットとジュスティーヌ姉妹。けものみちを生きてでも、裕福な特権階級にのし上がろうと野心を抱く姉ジュリエットと、そんな堕落した人生を歩むより、高潔な精神のままでいたいと主張する妹ジュスティーヌは根本的な性格の違いから決別します。
心優しきジュスティーヌは出あう人々につけ込まれ、辱めを受け、彼らから逃げても逃げても、行く先々で同じような邪悪な人物に遭遇します。
最後に伯爵夫人となったジュリエットに保護され、しかるべき身分を与えられますが、何もかも恵まれた環境が自分にはそぐわないように感じてしまいます。
悲劇のヒロインは雷に打たれて命を落とすのですが、サドは出所後、『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』として復活させ、フランス文壇にセンセーショナルなデビューを飾ります。作者は死んだものとして。

『ユージェニー・ド・フランヴァル、悲惨物語』
河出文庫「ソドム百二十日」に収録している中編小説。父と娘の近親相姦を扱った家庭悲劇。
魅力的な容貌の下に悪徳の塊のような本性を隠した、フランヴァル。類い稀なる美貌で高潔な精神をもったファルネイユ家の娘と結婚するが、彼女との間に生まれた娘、ユージェニーを自分の情婦にしてしまう。父親から、母を激しく憎み憎悪するように吹き込まれたユージェニー、父親譲りの堕落した精神の持ち主で、父と共謀して母親を陥れてやろうと画策します。
近親相姦ものって、古典悲劇にはよく見られるものだそうで、この作品もどこか古風な美しさがあります。悪しき者が滅びる、という結末で、サド作品としては珍しい。
一見、悲惨としか言いようのないお話ですけれど、コレ、なかなかの傑作ですよ。映像化したら、結構ドラマチックでいい作品になりそうな気がします。

本当は、私がサド作品の中で一番お気に入りの悲恋物語の短編があるのですが、これを書いていると長くなってしまうので、いずれ機会があったら紹介したいと思います。

革命勃発と釈放
動乱の気運が高まり、暴動まで発生していた1789年7月のパリ。バスティーユの囚人の待遇はだいぶ良くなって、夕方1時間の中庭の散歩に加えて、午前中1時間の屋上の散歩が認められるようになっていました。しかし、パリの擾乱が日増しに激しくなって厳戒体制に入っていたバスティーユの典獄がこの屋上の散歩を囚人に禁じたことにサドが腹を立て、下水を流すために使われていた漏斗型のブリキの管を引き抜き、メガフォン代わりにして、街に面した窓から、通りにいる民衆に向かって大声で叫んだ事件。
この騒ぎによってサドは「危険人物」とみなされ、シャラントンの精神病院へ送られてしまいます。バスティーユを出る時、彼は所持品を一切持ち出すことができませんでした。「印刷屋に渡すだけの状態になっていた十五巻の書物の原稿」もその中にありました。
そして、その十日後にバスティーユは襲撃され、暴徒と化した市民たちがサドの独房だった部屋に押し入り、貴重な書籍や大事な原稿は蹴散らされ、破られ、一部は燃やされてしまいます。

1790年、シャラントン精神病院を出所した彼は50歳になっていました。今や無一文の侯爵は、すっかり肥ってしまい、かつての華やかな道楽者だった頃の面影はきれいに失われていました。投獄された時点でサド侯爵の人生は終っていたのです。

(その3)へ続く

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by marikzio | 2006-03-12 17:56 | Book | Comments(0)

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