人気ブログランキング | 話題のタグを見る

「サド侯爵の生涯」  澁澤 龍彦 著   (その1)

マルキ・ド・サドこと、ドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド。(1740-1824年)
『サディズム』の語源としても有名な18世紀フランスの作家。スキャンダラスな事件のため、人生の半分を監獄や精神病院で過ごし、インモラルな著書を数多く生み出した、まさに一世一代のリベルタン。また、歴史の教科書に必ず登場するフランス革命や恐怖政治など"あの"激動の時代を生きた当事者でもあります。
彼の作品は反社会的で過激な内容のため、決して高く評価されるものではなく、"発禁処分の猥本"として水面下で読まれて続けて来ましたが、20世紀に登場したシュールレアリスト達によって再評価され、日本でも故澁澤龍彦氏の名訳が残されています。

私がサドという作家に興味を持ったのは『クイルズ』という映画がきっかけです。精神病院に収容された晩年のサド侯爵が、自分の小説が発禁処分で執筆も禁じられていたため、シーツに小説を書きなぐったものを洗濯女が回収して、こっそり街の本屋に流出させているエピソードが印象的でした。最後にはシーツもインクも衣服も奪われ、自分の排泄物で壁に文章を書き連ねる、という壮絶な男の生涯。もちろん、この映画にはフィクションも織り込まれていますが、「クイルズ」を観てしまった私は「今のテーマはサド特集♪」とばかりに、入手可能な彼の本を立て続けに読んでみたものです。
映画「クイルズ」と彼の著作から受ける、私のサド侯爵に対するイメージは「狂人すれすれの天才」、「レクター博士のように決して近づいてはならない存在」という彼の小説に出てくる人物そのまんまでしたが、果たして生身のサドはいかなる人物だったのでしょうか?
この著書の概要を紹介しつつ、自分なりにサド侯爵について語ってみたいと思います。

出生と結婚
サド家の起源は古く、12世紀に遡り、代々南フランスのアヴィニョンに住む名家。父サド伯爵は外交官、母、マリー・エレオノールはブルボン王家の血を引く宮廷貴族の出身。二人の間に生まれたサド少年は、姉と妹が早く亡くなっているため、ほとんど一人息子状態。両親は長期に渡って留守がちな家庭で、親から受ける愛情は希薄なものであったらしい。そのうえ、浪費癖のある父親が家の財産をほとんど食い潰しているような状態だったため、事実上、没落貴族のようなものでした。
士官学校を卒業したサドは金髪、碧眼、豊頬の青年士官となり、軍隊生活中は「駐屯の度に情事にうつつを抜かしていた」と、軍隊での友人がサドの父親に宛てて書かれた手紙が残っています。軍隊から帰った彼は生まれて初めての大恋愛を経験しますが、愛する女性に病気を感染させたため、破談にされてしまいました。女とあらば尻を追い回し、放蕩に耽った軍人時代のつけがここにまわって来たのです。
傷心のまま、サド青年は23歳でパリの終身税裁判所名誉長官モントルイユ氏の長女と結婚することになります。この裕福な成金貴族との縁組みはサド家の財政的危機をかなり緩和し、モントルイユ家にとっても王家の血を引くサドの家名は魅力的なものであったので、双方の利害が一致するものだったのです。この結婚に最も積極的だったのは、花嫁ルネの母である、モントルイユ夫人。若い花婿の浪費癖や放蕩ぶりの噂を聞いてはいましたが、王家に近づく絶好のチャンスを逃がしたくはありませんでした。
「男なんだから女遊びの一つぐらいはする」程度には考えていたでしょうが、サドの放蕩ぶりは一般のソレとは明らかに質が違うものであったことはその時、予想だにしていません。

初めての入獄
1763年10月29日、パリ。
結婚から半年も経たないうちに、サドは「妾宅における度はずれな乱交」の廉でヴァンセンヌの牢獄に収監されることになります。そのうえ、結婚した翌月から頻繁にパリに赴いて、娼婦たちと乱交に耽っていた、という事実が明るみになります。
最初の投獄は15日間で自由の身にかえることができましたが、これを機に彼は"危険人物"として認識されるようになります。
『度はずれな乱交』とは具体的にどのようなものだったかは記録が残されていないのですが、「神をも恐れぬ忌まわしい乱交」だったそうで、これまで犯罪人扱いされたこともなければ、他人から嘲罵や侮蔑すら受けたことのないサド本人にとって、逮捕、投獄は、自分の性的嗜好が世間一般では受け入れられる物ではなかったこと、犯罪と扱われる物であったことを知らされる初めての機会でした。
「自分がしていたことは神の懲罰に値するようなこと。」この事実を受け止めた瞬間、サドはリベルタンとして生きることを決意しました。

※リベルタンとは・・・
ラシェーベル氏によると、リベルタンとは「17世紀においては独立精神および伝統への敵意を意味し、したがって信仰および宗教的行為に従うことを拒否する者を意味していた。18世紀において、その意味は道徳上の放埒にまで拡大された」のである。すでにルイ14世時代にマントノン夫人が、この言葉を放蕩児の意味に用いた例も見られる通り、リベルタンの意義は宗教的戒律に対する不服従から、性的束縛に対する不服従へと徐々に変化したのである。

貴族の家に生まれ、何不自由なく、親に対する反抗精神もなく、特権階級者としてぬくぬく育って来た彼ではありますが、今まで何一つ満たされていなかったことに気づきます。世俗的な名誉やら野心に何の魅力も覚えなかった彼が、唯一、我を忘れるほどに夢中になり、内側に秘めた熱情ををすべて昇華できる所というのが、娼家のような秘密の場所で、自分の夢想を思う存分実行できるような現場でした。そこは現実世界を超越し、己の全存在の炎、それが燃え上がる歓喜の瞬間を得ることができる神秘の場所。
「社会の除け者として、額に烙印を押されようとも、本来のあるべき姿の己であるために、自分はこの卑しい快楽を追及していくべきだし、それこそが自分に与えられた宿命だったのだ」
そう確信を得た瞬間、リベルタン、サドが誕生したのです。
しかし、彼が"性の反逆者"として開花するのは、もうしばらく先、そしてそこに到達するまでに実に多くの苦難と屈辱を味あわなくてはならなかったのです。

アルクイユ事件
1768年4月3日、復活祭の日曜日。
パリ市中央のヴィクトワル広場で、サドは36歳の乞食女ローズ・ケレルに声をかけます。「自分についてくれば1エキュの金をやる」というのに対して「自分はそんな卑しい素性の女ではない」と抗弁する女。しかし、侯爵は「そういう意味ではなく、ただ女中が欲しいだけだ。」と説明したので、安心した彼女は同行することを承諾しました。
その後、女を馬車に乗せ、パリの街を離れたアルクイユの村に到着。ラルドネ街の通りにあった、サドの別荘に案内され、その中の一室に閉じこめられた彼女は服を脱ぐように命じられ、笞で打たれました。
拷問が終った後、寝室に残された彼女は、部屋の窓から飛び降りて、別荘を脱出。道で出会った村の女性に泣きながら、事の顛末を訴えて大騒ぎになった事件。
これがまた一大スキャンダルとなってパリに広がり、事実が歪められ、伝説となって一人歩きしました。部屋には数体の死体があったとか、人体実験の跡があったとか、性倒錯者サドのイメージがますます増強され、彼の今後に不利に働く材料となって行くのです。

マルセイユ事件
1772年6月27日、マルセイユ。
ラ・コスト城に居を移したばかりのサド(当時32歳)が通称ラトゥールと呼ばれる下男のアルマンを伴ってマルセイユの街にやって来ました。ラトゥールが街の女に声をかけ、「女の子たちを集めてカピュサン街の隅のマリエット・ボレリという女の家に来て待つように。」と指示。
指定された場所に集まったのは4人の娘たち。そこに下男とともに現れた我らが殿。美男でいかにも金持ちの道楽息子、といった風情、お供のラトゥールも見るからに軽佻浮薄な若者的外見だったらしい。
女の子を一人ずつ部屋に呼び(それ以外の物は別な部屋で待機させ)、自分を娼婦に鞭打たせたり、下男も一緒に参加させ...(言わぬが花、という言葉もあるので以下自粛)、とにかく延々と乱交が行われました。サドは怪しげな飴を女に無理やり食べさせ、その後彼女は激しい腹痛と吐き気に襲われました。
二日後、女たちの一人が検事の前で、このことを証言し、この事件はアルクイユ事件をしのぐスキャンダルとなり、サドと下男は由々しき事態に追いつめられることとなります。この事件により、彼らの上に死罪の判決が下ってしまったのです。
死刑判決。どう見ても「バカ殿の乱痴気騒ぎ」というか度の過ぎた子どもの放蕩としか言いようのない、この騒動。猟奇的事件でもなく、死者も出ていません。しかし、当時、鶏姦や男色は性犯罪とされ、死罪になるほどのものだったのでした。出頭した娼婦でさえ、自分がされた行為の真実に口を割らないほど。同意の上ではなかったとしても、鶏姦したことを認めることは、自分も犯罪者になってしまうことだったのです。
二人はサドの妻である、ルネ夫人の計らいでイタリアに脱出し、警察の手を逃れて数年を過ごし、一度は捕まって、逃走。最終的には自宅のラ・コスト城にいたところをマレーにより逮捕され、ヴァンセンヌの獄に収容されてしまいます。この時、39歳。
死刑にはならなかったものの、ここから11年間に渡る幽閉生活が始まります。
最初の5年半はヴァンセンヌに、後半の5年半はバスチーユに。

私は疑問に思います。彼は11年間も投獄されるほど重度の犯罪者だったのか、と。
少なくとも彼は生涯のうちで、殺人は犯していない。自分の小説に書いているような、妊婦を牛に踏ませたり、女性の腹を裂いたり、なんてことはしてないのです。
確かにモラルの面では大いに首を傾げたくなる点もあります。ルネ夫人の妹である、ローネー嬢と禁断の恋に陥り、愛の逃避行。それだけでも不道徳極まりないのに、マルセイユ事件が起きたのは、このローネー嬢と激しく盛り上がっている時期と同じなのです。
代々、サド一族に受け継がれている遺伝子には金銭感覚の欠如があるのか、イタリアなどヨーロッパ中を旅行しては、何の値打ちもなさそうな美術品を大量に買い込み、ラ・コスト城に次々と送りつけ、ルネ夫人が食費や暖房を切り詰めてまで、金策に走らされています。

とにかく存在そのものがスキャンダラスだった、サド侯爵。
劇場に頻繁に足を運んでは、お気に入りの女優につぎ込んだり、お金もないのに、若い女中をたくさん雇って、自分の邸宅で妻を交えて秘密の大饗宴を催したり。
今風に言うならば、スノッブとかセレブとか言うんでしょうね。彼のいくところあらぬ噂がついてまわり、世間の人々が鼻をつまんでいる光景が目に見えるようです。彼を嫌っている男性は数多くいたと思います。
夫として、人間として「どうしようもない奴」の部類に入るサド侯爵ですが、生涯にわたって30年以上の幽閉生活という憂き目を見なくてはならないほどの悪人だったのでしょうか?それとも、私の感覚が麻痺してしまったのでしょうか?
実は、この逮捕・投獄の背景には義母であるモントルイユ夫人が影で手を引いていたということがあります。(その話については次回)
その後、王政が崩壊して共和制が誕生する、という時代の大きな変化が訪れ、彼は釈放され、身分の高い職に就いたりする転機がやって来ますが、自分の執筆した作品がもとで、再び投獄されたり、精神病院に送られるなど、サドはまたしても囚われの身となります。
しかし、皮肉にも、この長期にわたる獄中生活が、彼の執筆活動を進めるきっかけとなりました。膨大な量の書物を読み、精力的に数多くの小説を生み続けたサド。自分の置かれる境遇に対する怒り、全てを奪われたことに対する怒りは、紙とインクに託すしか術がなかったのです。人間として生きて行くのに、あらゆる事を制限され、手足を失ったも同然の彼は、厳しい状況の中、眼病をも患いながら、熱情に突き動かされるようにして、ひたすら毒を吐き続けたのです。
投獄されるまで彼は、ほとんどペンを執りませんでした。リベルタン実践者としての修業に忙しく、本を書く暇などなかったのです。
不当とさえ思われる投獄生活は、後に名を残す怪物作家、マルキ・ド・サド誕生のために、必然的なものだったのかも知れません。

(その2)へ続く
by marikzio | 2006-03-07 18:57 | Book | Comments(0)

marikzio=mahのブログにようこそ。私の好きな音楽や映画を紹介しています。


by marikzio
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31